ブログ00061 「あっと言う間の一日」 2020年3月13日

 今日もあっという間の一日でした。気が付くともう夜です。目の前にある用事をこなすために奔走している間に、夜になってしまいました。毎日がこのような日々です。そんな毎日を過ごしていると、以前は、「何をやっているんだろう。こんな生活でいいんだろうか。自分のための時間は少しもなかったなぁ。」と思って、何だかむなしくなることもありました。しかし、この頃は充実した一日だったと思えるようになってきました。人は、誰からのために生きていると思うといつの間にか不平や不満が心に沸いて来ますが、自分のためにやっているんだと思えると充実感を抱けるような気がします。人は、考え方次第で良くも悪くも捉えることができます。問題なのは、現実なのではなくて、現実を自分がどう捉えるかということの方だと思えるようになりました。その時から、物事を見る目も変わってきました。

 

 元々、被虐待児童のためのファミリーホームを始めたいと思ったのは私であって、誰かに頼まれて無理やりさせられている訳ではありません。自ら望んでこの事業を始めたのであり、忙しい毎日になる生活を選択したのも私です。ですから、忙しいからと言って、子どもたちに不満や不平や文句をいう類の話ではありません。「自らが望んだ人生を生きている。」 ただ、それだけのことです。そして、毎日があっという間に終わり夜を迎えれたと言うことは、望んだ人生を生きれた一日だったと言うことですから、理屈上は満足で感謝な一日だったということになります。そういうふうに考えるとまんざらでもない一日だったと思えます。

 

 ですから、私は特に忙しい時には、誰のために忙しいのかを考えるようにしています。決して忙しいのは子どもたちのためではありません。私自身のためです。自分が望み、自分が選んだ道ですから、時を忘れるほどの一日を生きられたのなら、充実していたと言うことですから幸いです。明日もそう思えて一日を終えることができれば良いのですが…。

ブログ00062 「学力」 2020年3月14日

 特別支援学級に通う発達障がい児にとって、どれほどの学力を身に着けさせることが必要なのかという問題は昔からの私の悩みです。障がいの程度も個々によって違いますので、一概にここまでというラインを引くことはできませんが、今の私のは、彼らが社会生活を送る上で最低限必要とされる学力を基準に考えるのが妥当かと考えています。学問には切りがありませんので、上を目指せば学ぶことはたくさんあってどこまでも終わりがありません。どこかで切りをつけなければ、彼らに多大な負担をかけることになります。私の経験上、彼らもかなり頑張らせればある程度の学力向上させれることは知っていますが、それは養育者も児童も大きな犠牲を伴うもので、相当の苦労を覚悟しなければならない厳しい道です。苦労しながら勉強している彼らの姿を見ていると、「そこまでして彼らに学ばさせなければならないことなのだろうか。これは本当に彼らのためになっているのか。」と私はどうしても考えてしまいます。

 

 彼らは、健常者と比べて理解するのに時間がかかりますし、苦労して覚えたことも記憶に定着せずに翌日には忘れてしまいます。毎日毎日同じことの繰り返しです。今まで毎日同じことを学んできたのに、今日初めて学ぶかのような反応に驚かされることもしばしばです。そんな時に、この努力は本当に意味があるのだろうかと考えさせられます。彼らが社会に出て行ったときに、この学びは役に立つだろうかと考えると、あまり必要ないと思わされます。四則計算(足し算、引き算、かけ算、割り算)くらいは最低必要だと思った時期もありましたが、それさえもなくても生きられることが分かりました。電卓という強い味方がいるからです。ホームから巣立った児童が、いつも小さな電卓を携帯しており、買い物の際に使用しているのを見て、これさえあれば大丈夫だと思いました。文明の利器を使えば不自由はありません。四則計算を苦労しながら覚えるよりも(苦労する割には覚えていないし、計算も間違っていることが多い)、電卓の使い方をマスターした方が、彼らの生活には役立つと思っています。だから、私は学力向上のために彼らに苦労を強いることはやめました。当然のことながら、学習意欲の旺盛な児童には惜しみなく勉強は教えますが…。

 

 そんなことを言うと、すぐに子どもの可能性をつぶしていると批判をしてくる人がいますが、私は彼らに負わせる苦労を考えると必要以上に頑張らせたくはありません。その頑張りにあまり意味を感じないからです。それに、頑張らせすぎると彼らの心が壊れてしまいます。それに、私はそんなことよりも、彼らには社会のルールを守ること、人に対する優しさや思いやりの心を持つこと、ちゃんと挨拶すること、人の忠告は素直に聞くこと、自分のことは自分ですること等を学ばせることの方が重要だと考えています。社会に受け入れられて生きて行かなければならない彼らにとって、四則計算や漢字ができることよりもこちらの方がずっと重要です。私はそう思います。しかし、学ぼうとする姿勢自体は大切なことですから、今日も彼らに無理のない程度での学習の時間を持っています。でも、過熱して行き過ぎた教育にならないように自戒しながら、寛容に彼らの学びに付き合いました。

ブログ00063 「障がい」 2020年3月15日

 新型コロナウイルスの感染拡大による学校の長期休校により、子どもたちがホームで過ごす時間が増えたことで、彼らの勉強を見ることも当然のことながら増えました。昨日も勉強の問題に触れましたが、今日ももう少し私の考えをお話ししたいと思います。私が、彼らの勉強に付き合っていく中で、努力と受容の折り合いをどのようにつけていくのかということがいつも課題になります。勉強の大切さを否定する訳ではありませんが、人それぞれに能力というものがあり、それを著しく超えた荷重をかけることが精神衛生上よくないことは言うまでもないことだと思います。私は、障がいとは努力で乗り越えられないことを言うのだと考えています。どんなに努力しても乗り越えられないから障がいなのであり、努力で克服することができるなら、それは障がいではなく怠惰なだけです。なぜなら、努力すればできるようになるのですから…。

 

 我が家にいる児童たちが発達障がい児であるということは、努力では乗り越えられない領域の問題があると言うことであり、それは受容して生きる問題なのだと言うことを理解することが大切なのだと思います。彼らの養育に携わる者は、その思い切りといいますか、決断が必要なのではないかと考えています。障がいゆえにできないことを努力させることは、彼らに多大な負担を強いることになりますし、できない日々の連続は、彼らの自信を失わせて自己肯定感を大きく損なう恐れがあります。養育者には、勇気を持ってできないことを許容して生きる術を彼らにを教える責任があるのではないかと思います。そうでないと、彼らは苦しむことになります。これは決して諦めではありません。努力すればできることまでしようとしないのは怠惰なだけで、容認されていい生き方ではありません。人として向上心を失ってしまうと成長しませんし、自らの手で可能性を奪うことになるからです。だから、努力と受容の兼ね合いは難しいのです。私は、そのはざまでいつも悩んでいます。「頑張らせるべきか、できないことを受け入れさせるべきか」を。

 

 今日もそんなことを考えながら、子どもたちに接しています。彼らの成長を妨げない努力と壊れてしまわないための受容のラインがどこにあるのか、誤りのない判断ができるとようにと願っています。そのラインも児童それぞれによって違いますのでとても判断の難しい話ですが、障がい児童を受託しているすべての養育者に求められている務めでしょう。その困難さを十分に理解していますが、それでも諦めずに取り組んで参りたいと考えています。1人1人の児童の幸福を願って。

ブログ00064 「里親の役割」 2020年3月16日

 本日は、Fさんの実親さんとの面談日で児童相談所に連れて行きました。しばらくぶりに実親さんとお出かけし、食事をしたり買い物をしたり街をぶらぶらと歩いたりして楽しかったようです。基本的に(酷い虐待を受けたとか非常に嫌っている以外)実親さんと会って喜ばない児童はいません。彼らは実親さんからの愛に飢えていますので、どんなに小さな事柄の中にでもその愛を確認したがっており、面談や外出は絶好の機会だからです。自分に会いに来てくれたこと、どこかに連れ行ってくれたことや何かを買ってもらったことで愛されているとの確認をして帰ってきます。その姿を見て良かったなぁと率直に思います。また一歩、家庭の再構築の準備が進んだと思えるからです

 

 一般的に実親さんは、子どもを取られるのではないかと警戒して、里親にではなく児童養護施設に預けたがる傾向がると聞いています。確かに、児童養護施設に比べ特定の大人が継続的に養育にあたりますので、そのような疑念を持たれるのも分からない訳ではありません。しかし、里親の務めは、家庭の再構築を手助けすることであって、決して児童を実親さんから横取りすることではありません。実親さんの元に帰れるように児童の側の準備をすることが目的であり、どこまでも帰宅前提で養育に携わっています。親子問題に関しましては、片方だけが100%悪いと言うことはほどんどありません。もし、どちらかでも100%正しい対応ができるならば争いは生じません。程度の差こそあれ、お互いに問題があります。私の28年間の里親経験からも言えることですが、子どもには子どもの抱える問題があり、それが家庭崩壊の一要因になっているケースがほとんどです。家庭の再構築のためには、児童の側にも矯正されなければならない課題があると言うことです。家族の一員としての自覚と役割を学ばせ、いたずらに実親さんを怒らせない生活ができるように教育していくことが求められており、それを行うのが里親の役割です。いわば、里親の家庭でロールプレイングしているようなものです。疑似家庭で家族の一員としての自覚と責任、生活の在り方、親との接し方、子どもの役割等などを実体験の中で学んでいくのです。それはひとえに、家庭引き取りに備えてのことです。

 

里親は、決して実親さんの児童を奪ったりはしません。大切に養育し、しかるべき時(実親さんと里子の準備が整った時)に喜んでお返しいたします。児童が本来いるべき家庭に帰り、家庭が再構築されることこそが里親にとっての最大の願いなのです。ですから、実親さんとの面談や外泊も積極的にお手伝いしますし、普段から実親さんとの生活がうまくいくように指導していきますし、決して実親さんの悪口はいいません。どこまでも家庭復帰を目指します。このことに関しましては、一般の方々にもぜひ知っていただきたいことです。そして、社会においてもっともっと里親制度が認知され、安心して委託できる場所であることを理解して欲しいと願っています。とにかく、本日のFさんの実親さんとの面談と外出はうまくいって本当に良かったと思います。

ブログ00065 「手洗い」 2020年3月17日

 今もって、新型コロナウイルスの影響でマスク不足が報道されています。いつになったらマスクが店頭に並ぶようになるのか全く見当もつきません。私としましては、政府保有のマスクや自衛隊、地方自治体、その他の機関が保有しているマスクは、医療従事者にすべて配布してもらいたいものだと思っています。一番必要とされているところに届けられることが、至極当然なことだと思いますし、一般人は個人の工夫によって対処する問題だと思うからです。その努力を試みないで、安易にマスクの買占めに奔走するのは知恵のない行為のように思います。私たちのホームでは、今年の1月以降にマスクの購入はしていません。それは、少しでも医療従事者にマスクが届くようにとの願いからです。子どもたちにも、こんな時だからこそ、工夫で乗り越えて安易なマスク買占めに走ってはならないと教育しています。それよりも、手元にあった予備の保管マスクを節約しながら生活していこうと教えています。

 

 我が家には6名の児童がいますが、家庭内ではマスクは着用していません。毎朝、学校からいただいた体温チェック表で朝と夕方に確認していますし、誰も咳もしていなければ風邪の症状も見られないからです。ただし、デイサービスに行くときと分散登校で学校に行くときは、周りへのエチケットの問題として着けさせています。度々報道されていることですが、マスクは近くで咳をしている人から感染しないために(直接咳をかけられるような場合のみ)、また自らが咳き込んでいる人が周りの人に感染させないために(そんな人はそもそも外出してはいけない)必要なのであって、そうでない場合は無用なものです。ですから、そういう場面にあわなかったのなら、そのマスクはまた使用すればよいのです。私たちのホームでは、帰宅した際に周りで咳をしていた人はいたかどうか、自分は咳をしたかどうかを確認し、どちらもない場合は、翌日もそのマスクを使います。そして、汚れてきたら取り替えます。そのようにしてきましたが、まったく問題ありません。

 

 最初の頃は、すぐに捨てたり無くしたりしていましたが、「マスクが売られていないことや自分たちが買わないことで医療従事者の方に優先的にマスクが渡るようにしよう。」と話した上で、不注意で無くした児童には1ポイント(児童が良いことをしてためているポイント)で交換することにすると伝えると効果てきめんで、誰も無くさなくなりました。そのため、以前から保管していたマスクで十分に足りています。専門家の話によりますと、マスクよりも手洗いの方が重要だと(新型コロナウイルスは洗剤に弱い)主張されていましたので、手洗いだけは頻繁に行わせています。ホームでは、普段から手洗いを何度もさせていますので、児童も当たり前のように何も言わなくてもやります。その点は習慣づいていましたので苦労はしていません。ただ、すぐ「やりました!」と言うけれども適当にしかしない場合も多いので、洗面所から帰ってくるのが速いともう一度洗いに行かせます。それでも疑わしい場合は、もう一度一緒に行ってチェックします。面倒ですが、繰り返しているうちに身についていくものです。今疑わしいのは、A君とB君だけです。彼らもそのうちに適当にした方が面倒なことになることを学習するものと思います。とにかく、日々新型コロナウイルス感染者の治療にあたっている医療従事者に1枚でも多くのマスクが届けられることを子どもたちと一緒に願っています。

ブログ00066 「チクリ」 2020年3月18日

 B君は、自分のことには盲目だが、他人のことには目ざとい児童です。それが他の児童の長所や善い行いに気が付くというのであれば良かったのですが、悲しいかな欠点や失敗を瞬時に見つける能力の方に長けているのです。しかも欠点や失敗に気づくと大声ではっきりと躊躇なく指摘するために、そのことが常に児童間のトラブルを巻き起こします。欠点や失敗を人前で指摘されて喜ぶ人などはどこにもいませんが、彼には人の気持ちは分かりません。指摘してあげて良いことをしているぐらいにしか認識していません。それでいて、自分のことはまったく見えておらず、同じ失敗を何度も繰り返します。それがまた周りの児童をイラつかせています。本当に、社会性に乏しい児童だと痛感しますし、これからの彼の人生を考えると思いやられます。

 

 今朝もテーブルの上も下も異常なほどに食べこぼしてはいるし(口の中に入る量よりもこぼしている方が多いのではないかと思う程)、食べたバナナの皮はちゃんとごみ袋に入れないし、食器を片付けもしないで雑誌を読み始めるので注意しました。それでいて、私が小さな声で「しゃもじはどこかなぁ。」と独り言を話すとすかさず「そこにあります。」と言う。あとで洗おうと横においていたコップを見て「お父さん、洗ってませんよ。」と言います。思わず「黙ってなさい!」と言ってしまいました。日頃より、B君には「思いついたことをすぐに話してはいけません。言っていいか考えてから話しなさい。」と教えていますが、ちっとも身に付きません。相変わらず周りの人の失敗を指摘してはひんしゅくを買う毎日です。このままではB君は決して幸せな人生は生きられません。果たして、どうしたらよいものやらと思案しています。

 

 この頃は、「しゃべる前に一呼吸おいて(深呼吸して)から話そう。」と指導していますが、まったく効果が見られません。それで、「思いついたことを何でも話さないで、聞かれたことだけ答えるようにしよう。」と勧めてにいますが、これもあまり効果がありません。一応、私対しては心掛けているようですが、私がいないところではマシンガントークになっているようです。今のところ有効な手立ては見つかっていませんが、彼の成長と共に少しは相手の気持ちを考えて話せるようになるでしょうし、無駄のように思われる今の努力も報われて行くようになるものと信じています。と言いますより信じたいと思いたいです。

 

 

ブログ00067 「ゲーム」 2020年3月19日

 子どもたちはゲームにとりつかれています。我が家では、すべての用事(片付け、明日の準備、反省会、寝る準備等)が終わってから、時間があればゲームができるというシステムになっています。昨日はお風呂の日だったので、時間がかかってしまうため(子ども6人が順番に入りますから)、ゲームができるかどうかいつも微妙な時間になってしまいます。それが分かっているのですから何事でもテキパキと行えばよいのに、先読みできない彼らはダラダラ無駄な時間を過ごし、気が付けばゲームをする時間が無くなっているということの繰り返しです。昨日も案の定時間がかかり、ゲームができる時間が15分しかありませんでした。この15分というのが曲者で、6人の児童が15分間ゲームをするとなると誰がやるやらないで争いが起こります。そんな時、大人な対応ができる子どもなど一人もいませんから争いがエスカレートします。そして、争っているうちに15分が過ぎてしまい、ただ争っただけという結果になります。私としましては、そんな光景も見たくないので、「毎日ゲームしなくていいでしょう。今日はやめにしよう。」と言ってやめにしました。すると、泣き出す児童までいる始末で、改めて「この子たち、ゲームにとりつかれているわ。」と改めて思いました。

 

 香川県議会は3月18日に開いた定例議会で、子どものネット・ゲーム使用を制限する「ネット・ゲーム依存症対策条例案」を賛成多数で可決しました。「ネット・ゲーム依存症対策条例」は全国初のゲーム依存症に特化した条例として、4月1日に施行する見通しです。同条例は、18歳未満の子どものネット・ゲーム依存症を防ぐため、県や保護者、通信事業者、ゲーム制作会社などの責務を明記したものであり、罰則はないものの、「ゲームは平日1日60分まで」「午後10時以降はゲーム禁止」など具体的な制限が記されており、条例案の発表当初からネット上で物議を醸していました。香川県の一連の議論をきっかけに秋田県大館市など、ネット・ゲーム依存症対策について検討を始めた自治体もあり、今後は他都道府県でのネット・ゲーム規制に向けた動きの広がりにも注目が集まりそうです。

 

 このようなニュースも飛び込んできており、ゲーム並びにネットの扱いに関しては大人が真剣に考えなければならない課題だと思います。ここでそれらに関する私の考えをお話しすると長くなりますので、ここでは控えることにいたします。ただ、何の制約もなく子どもに与えることは無責任であり、ちゃんと約束事を交わし、尚且つ約束を破った場合の罰則の合意もしたうえで(明文化し、誓約書を交わす)、使用を許可することが望ましいと思います。自由は責任を負える人に与えられるものであり、自己管理もできない児童に何の制約も設けない自由を与えることは危険極まりない無責任な行為だと私は考えます。自分で責任を負えない子どもの時は、大人が与える制約の中で(当然、子どもの権利を尊重し、彼らの幸せを願っての制約です。)自由に生きることが彼らの健全な生活を守り、彼らの豊かな人生を守り、尊い命を守ることになると思います。ですから、私は今日も、彼らに私が与える制約の中で自由に生きることを求めます。彼らが、自らが自由に対して責任が負える大人になるその日まで…。

ブログ00068 「外出」 2020年3月20日

 今日は、祝日のためにデイサービスがお休みで、子どもたちがホームで過ごしています。午前中は、賑やかに玩具で遊んだり、勉強したり、テレビゲームをして楽しんでいました。午後からは、今日やらなければならい用事や買い物があり、小学生の4人を連れて出かけました。現在は、新型コロナウイルスの感染拡大がある程度抑えられている状況ですが、不要不急の外出を控えるべきだと勧められています。ですから、連れて出かけることには躊躇しましたが、あの4人を置いて行ったらどうなるのかを想像すると恐ろしくなり、やはり連れて行くことにしました。争いが過熱して誰かケガをしたり、血を流すような事故が起こっても困りますのでやむ負えないと判断いたしました。でも、感染リスクがあるため人の集まる場所には連れていけないので、用事が終わるまで車の中で待たせました。子どもたちは、DS(携帯ゲーム機)や手作りカードゲームを行って静かに待っていました。お店に行って思ったのですが、昨日北海道知事が不要不急の外出を自粛するように話していたのに、多くの児童がうろついていたのには驚きました。まだまだ、感染のリスクが顕在しているのに、「よく子どもを人ごみの中に連れてこれるものだ。」と思いました。油断するのは早すぎると思います。

 

 北海道では全国で最も感染者数のおおい都道府県であり、早くより新型コロナウイルス拡散防止のために手を打ってきました。どこよりも早く学校の一斉休校に踏切り、その判断に対して多くの方々から疑問視もされましたが、正直申し上げて英断であったと思います。なぜなら、年末年始にかけまして病人が絶えなかったホームですが、休校以降誰も病気になっていないからです。いかに学校が病気の温床だったかを改めて確認する機会となりました。確かに、子どもたちにとりましては、デイサービスとホーム以外のどこにも出かけませんのでかなり行動が制限されることになりましたが、病気とは無縁の健康的な毎日を送れています。年末年始に看病に追われていた私たちにとりましても、やっと一息つける機会となりました。大家族ですので、1人でも病気を持ち込みますと全員が危険にさらされてしまいますので、今は誰も病気を持ち込まないので守られています。多少退屈なぐらいなら、病気になることに比べれば、子どもたちにとっても良いことだと思います。

 

 この頃は、家にいる子どもを楽しませるためにたくさんが動画が配信されて話題になっていますが、私としましては大人が子どもにサービスし過ぎのように感じます。大人が退屈しないように工夫しなくても、子どもは想像力を働かせて楽しいことを一杯見つけて遊びます。大人が手助けし過ぎると想像力の乏しい子どもになりますし、自分で楽しいことを工夫して見つけようとする努力をしないで、安易に大人が楽しませてくれることを要求する子どもになってしまいます。子どもの発想力に委ねて放牧する養育も必要かと私は思いますが、皆さまはいかがお思いになりますか。私の場合は、少し放牧し過ぎるような気もしていますが…。

ブログ00069 「支柱」 2020年3月21日

 今日は、私たちファミリーホームの精神的支柱であり、生活全般を支えてくれているお母さんの誕生日でした。ホームにおける子どもたちの生活のすべてを守っているのは里母であるお母さんであり、彼女無くしては1日たりともホームを維持することはできません。子どもたちの食事作り、買い出し、身の周りの世話、掃除や洗濯、児相や実親との連絡調整、学校やデイサービスとの対応等、健康管理から生活指導まで里子の生活管理全般を一手に引き受けてくれています。里父である私は、ホーム運営の実務的な仕事をこなしているだけで、殆どが里母の労苦の上に成り立っています。そんなことは、日常生活でお母さんを見ている子どもたちも充分に理解しており、それぞれに手紙や折り紙やメッセージカードを書いて感謝の気持ちを伝えていました。本当は、彼らも自分のお小遣いで誕生プレゼントを買いに行きたいところですが、今年は新型コロナウイルス拡散の影響で不要不急の外出の自粛が求められていますので、手作りのもので我慢することにいたしました。子どもたちは何とか買に行きたかったようですが、大人の判断で私がやめるように説得し、私がお花とケーキを代わりに買ってくると言うことで渋々承知してもらいました。

 発達障がいを抱えている彼らですが、自分にできる精一杯の気持ちを込めて手紙を書いたり折り紙を折ったりしていました。どんなに稚拙な文章やお粗末な作品であっても、私はその工程を見ていますので、感謝の気持ちが込められたものであることを知っています。そのことは、誰よりも子どもたちのことを知っている家内のことですから察してくれたものと思います。私たち人間は、ついつい出来栄えや見た目にこだわり過ぎてしまい、そこに至る労苦の工程を無視しがちですが、実は工程こそが物の価値を決めるのではないかと私は思います。障がいを抱える彼らにとって、どんなに時間をかけても上手にできる訳ではありません。一生懸命やったことでも、お世辞にも素晴らしい出来だとはいえません。でも、その不格好で下手くそな作品であってもまともな文章になっていない手紙であっても、そこには一生懸命に感謝の思いを伝えようとした努力が込められています。しかし、残念ながら、それは見えないのです。上図にできるかできないかは技術の問題であって、気持ちの問題ではありません。上手にできる技術があれば、気持ちなどこもっていなくても短時間で見栄えの良いものを作り上げることができます。いつでもそうですが、大切なものは目に見えないものの中にあるように思います。見た目ですべてを判断しがちな私たちは、あえてその向こう側にある思いや苦労や願いを読み取れる洞察力を身につけておきたいものだと思います。

 

 地道に児童福祉に携わる私たちの働きも、目に見える形で報われることが少ないと思います。24時間365日、里子の養育に携わっている里親たちには、休みもなければ、自分の時間も取れない、労働が報われるほどの賃金をもらうこともありません。見える報酬で満足を得ている人は1人もいないと思います。それなのに私たちがこの働きに従事しているのは、目に見えない報酬があるからです。それは、里子たちの喜ぶ姿を見ることや希望にあふれる思いに触れること、日々の成長の発見や立派に自立して巣立つ姿に立ち会える喜びに、「ああ、良かった。」と思える瞬間が最大の報いです。これがなければ、誰もこんな苦労の多い働きに従事する人はいないでしょう。私たち児童福祉事業に従事する者たちは、目に見えない報酬に支えられて日々この働きに向き合っているのです。今日の家内の誕生日も、そんな目に見えない報いを得れた感謝な時でした。

 

ブログ00070 「ポイント」 2020年3月22日

 我が家では、ポイント制を導入しています。良いことをしたり感動させたりした場合にはポイントが付与され、悪いことをしたり悲しませたりしたらポイントが減らされます。今日も、何度注意してもうるさく騒いでいたのでA君とB君のポイントを、それをボーッと見ていたD君のポイントを1ポイントずつ減らしました。子どもは騒ぐものですからある程度は我慢しますが、度を超えて騒いでいると注意することにしています。子どもたちは、興奮してくると必ず声が大きくなってきますし、その興奮状態を放置していますと必ず争いか怪我人がでますので、早めの対策を講じているということです。それに、騒がなくても楽しむ方法はたくさんありますし、遊び方によって静かに楽しむ方法もありますから、考えて工夫する術も学んで欲しいとも思っています。また、生活には騒いではいけない時もありますので、自らをコントロールできる術も身に着けて欲しいという思いもあります。このように様々な理由があって、度を越えた騒ぎは制限している訳ですが、何度注意しても中々自分をコントロールできないというのが実情です。

 

 この頃、気になっているのがD君の存在です。3人は仲が良くていつも一緒に過ごすことが多いのですが、A君とB君が衝突している時にも何もしないでただ見ているだけのことが多く、争い解決のための介入をすることができません。早い段階で止めることができれば争いも大きくならなくて済むのに、いたずらに放置しているのでお互いに興奮して罵り合い、怒りをぶつけ合い、暴力へと発展していってしまいます。それでも傍観しているという有様で、私としても困ったものだと思っています。確かにD君は温厚な性格であり、いつもニコニコしていて、争いを好まない児童です。平和論者で争っている姿をあまり見たことがありません。その点は非常に評価できるとても良い子なのですが、残念ながらひとたび周りで争いが怒った時には何の役にも立ちません。終始、傍観しているという状態です。完全な人間などはいないのですから、今のままでもD君は充分なのかもしれませんが、どうしても欲が出てしまい、「もう少しなんとかならんかなぁ。」と思ってしまうのは贅沢な話なのでしょうか。


 D君には、日頃から「周りの子どもたちと争わない生活をしていることはとてもいいことだけど、もう一段階成長して争いを止められるようになって欲しい。」と話していますが、彼にはかなり難しいようです。彼は確かに誰とも争わない平和論者ですが、それは消極的な意味であって、本当の平和論者とは言えません。真の平和論者は、争わないだけではなく、争いを止められる強さを持っている人のことです。争いを傍観するのではなく、争いの仲裁ができる人のことです。そういった意味で、彼の平和は道半ばという段階だと思います。それを次の段階へと成長していくことが理想なのですが、争いの渦中に飛び込むこと自体が彼には難しいようです。それで、彼には、「争いが始まりそうになった時には、争いが大きくなる前に自分で止める事が理想だけど、その勇気がなければとにかくお父さんを呼びに来よう。」と提案しています。争いを止められないまでも、止めるための何らかの行動ができる子どもになって欲しいと願ってのことです。しかし、それさえも今の彼には難しいようで、相変わらずの傍観者をやっていて成長の兆しすら見えません。それで、今回はポイントを減らすという刺激策を講じた訳です。果たして効果はあるでしょうか。「傍観者にならない。」ということが、今のD君の克服すべき大きな課題です。