ブログ00071 「卒業」 2020年3月23日

 2歳の時に乳児院から我が家にやってきたD君とCさんが、今日無事に小学校の卒業式を迎えました。新型コロナウイルスの影響で、卒業生と先生だけの卒業式になり、私たちは参列することは許されませんでしたが、卒業の日を迎えられたことだけで感慨無量です。月日が経つのは本当に早いものであり、思い返せば泣き叫ぶ2人を乳児院から連れて帰って来てからすでに10年の年月が経ちました。特にD君は体が弱く心配な児童でした。食も線も細く、喘息が悪化して危うくなって入院治療を受けたこともあって心配が絶えませんでした。一方、Cさんは非常に健康的であり、あまり病院にかる心配のない児童で助かり.ました。しかし、私たちが心配だったのは、知的及び情緒障がいの方でした。私たちが乳児院に面会に行った際に、2人とも発達障がいを抱えていることは私たちの目にも明確であり、これからの彼らの人生を考えると厳しいものになるだろうと感じたことを思い出します。それでも、私たちにできることがあるなら、彼らの成長の手助けをしたいと考えて委託を受けることにいたしました。あれから10年、いろんなことがありましたが、何とか小学校卒業まで漕ぎ着けることができました。まだしばらくはホームで成長を見守ることになると思いますが、人生における一つの節目を迎えられて少し安堵しています。

 卒業式のあと玄関前で写真撮影をし、お祝いを兼ねた昼食を食べるために回らない寿司屋の「魚べい」に連れて行きました。。いつもは子ども全員で食べると莫大な金額になるので制限させていましたが(ある時には、お恥ずかしながら入店前にパンを食べて少しお腹を膨らませたこともありました。)、今日ばかりはお祝いなので「何でも好きな物をお腹一杯食べなさい。」と言ったら、本当に遠慮なく食べるので、思わず「300円以上の皿はあかんで。」と言ってしまいました。ほとほとケチだなぁと思いました。児童相談所の監査では、児童6人全員の外食でなければ措置費から支出してはいけないと指導されています。1人でも児童がいなければ、全部里親の自己負担で外食しなければならないそうです。児童が食べた分の食事代(里親の食事代は別として)を、子どものための措置費から支出することがどうしていけないのか分かりませんが(理由を聞いてもそう決まっていますとしか児相の職員は答えません。)、私個人としては納得のできないものを感じています。まぁ、今回は私たち夫婦からのお祝いですから、当然喜んで自己負担するつもりでしたから不満はありませんが…。それでも、ついいつもの節約癖が心から出てしまい、2人には可哀想なことを言ってしまいました。でも、いつもは食べれない少し贅沢なデザートも食べれて彼らは満足してくれたようで良かったと思います。きっと、日頃から美味しい物ばかり食べていたら、こんなもので幸せを感じることはできなかったでしょうね。節約生活は、ちょっとした贅沢でも大きな幸せを感じることができます。そう思うと、金持ちよりもずっと小さなことで感動できる貧乏人の方が幸せな人生を生きているのかも知れないと思いました。

 

 さて、小学校卒業で彼らの人生が終わる訳ではありません。彼らの人生はまだまだこれからです。彼らが立派な社会人として巣立って行くまで、私たちの心配と苦労は続きます。これからも1日1日と、彼らと生活を共にしながら必要な生活支援を行い、それでいてちゃんと欠点も克服できるように協力し、自分のことは自分で責任が取れる誠実な人間として自立し、自らで幸せな人生を選択して歩めるように成長して行って欲しいと願っています。理想は高いですが、理想がなければ近づくこともできません。彼らと共に歩む中で、その実現に一歩でも近づける日々を送りたいものだと思います。

ブログ00072 「うんこ」 2020年3月24日

 昨夜、我が家ではうんこ問題が勃発してひと騒動ありました。1階トイレに特大うんこが流されないまま(というか、大きくて流れなかった。)にされていたので、1階トイレを使用している男児4人を集めて尋ねました。「誰が流さないままにしたん?」と聞いても、「僕ではありません。」とみんな答えます。「そんなことはないやろう。誰かが流さないままでトイレから出たからこうなったんだよね。」と言うと、「僕が入った時にはこうなってました。」とみんな同じように言い訳するものですから埒が明かないと判断し、なぜこうなってしまったかを説明することにいたしました。私は、基本的に犯人捜しはいたしません。それはあまり生産的ではないと考えるからです。たとえ、犯人が分かったからと言って、その児童を吊し上げて追い詰めるだけですし、犯人ではない他の児童は他人事だと考えてそこから何も学ぼうとしませんから、結局のところ誰にも益がありません。それよりも、この機会にみんなが何かを学べる機会にすることの方が有益だと私は考えるからです。

 私が彼らに話した内容は、大体次のようなことでした。まず、「大きなうんこをすることは悪いことなのですか。」と尋ねることから始めました。すると、D君がすかさず「健康な証拠です。」と答えてくれたので、「そうだよね。大きなうんこをすることは決して悪いことではありません。かえって良いことです。だから恥ずかしいと思う必要はありません。」と話した上で、問題なのはそのことではなく、その場合の対処方法だったことを理解してもらう事が必要でした。そこで、「大便をした場合には、ちゃんと流れているかどうかを確認すること。また、便器にうんこがついていたら掃除するように。それは、次に入る人への配慮として当然すべきエチケットです。だって前の人のうんこが残っていたらいやでしょう。」と話すと、彼らは「そりゃそうだ。分かった。」と答えました。そして、「今回、誰も自分ではないと言うけれど、みんなちゃんと流れたかどうかを確認したのかい。トイレタンクのノブをひねって水を流したからうんこは流れたものだと思い込んだんじゃない。でも流れなかったかもしれないよ。だから、みんな自分じゃないと言うけれど、ただ気づかなかっただけかもしれない。そう思わないかい。」と続けると、「確かに確認してないから僕だったかもしれない。」と言い始めました。次に、「みんな、自分がトイレに入った時にはすでにあったと言うけれど、それならなぜ気づいた時にお父さんに伝えなかったんだい。すぐに伝えて処理すればこんな大事にならなかったんじゃない。お互いに『僕じゃない。〇〇君じゃないか。』と言って非難し合わなくて済んだんじゃない。問題だったのは、知っていたのに見ぬふりをしてやり過ごしてしまったことの方ではないかと思わないかい。」と尋ねると、「もっと早く言えば良かった。」と反省していました。私は、問題が生じた時には個人攻撃にならずにみんなで学ぶ機会するのが理想的だと考えています。毎回そうできる訳ではりませんが(感情的になって怒り散らすこともありますから)、できるだけそうできるように努力しようと思っています。

 

 今朝、「子どもたちに流れたのを確認したかい。」と尋ねると、「確認しました。」と答えていたので、今朝に限ってはできたようです。すぐに忘れてしまうので同じことの繰り返しですが、少しずつ身に着けて行ってくれればいいと思っています。彼らの成長に要期待です。

ブログ00073 「キモい」 2020年3月25日

 デイサービスの先生から「A君が障がいの重い年下の児童に対して『キモい』と言っていたので注意しました。」と聞きました。その差別的な行為を見過ごしにはできないと思い、A君を呼んで話を聞くことにしました。なぜ、自分より小さな、しかも障がいの重い児童に対してそんな言葉を言ったのかを聞くと、「その子が痰を出す音が楽しかったようで繰り返しているのに腹がった」とのことでした。どんな音だったかは分かりませんが、その子には聞いたことのない相当面白い音だったのでしょう。子どもは面白いと思うとしつこく繰り返しますから、それがA君の気に障ったようです。それは理解できますが、たとえそうであったとしても「キモい」という言葉でイラつく思いをぶつけるのは良くなかったと思います。

 

 この話をA君とするにあたって私がまず疑問に思ったことは、果たしてA君は「キモい」の意味を分かって使っているのかという問題です。子どもによくある話ですが、誰かが使っているのを見て、言葉の意味は分からないけど何となく雰囲気や言い回しで分かった気になって使うようになることがあります。ですから、私は気になる言葉を使う子供がいると「意味分かって使ってるの?」と尋ねます。すると多くの場合、まったく意味が分からないか、全然違う意味で使っています。きっとA君も意味が分からないで使っているのではないかと疑いました。すると案の定、意味が分からないで使っていたそうです。ですから、まず「キモい(気持ち悪いの略)」の意味を説明し、そんな言葉を言われた人は悲しくならないかと話しました。A君は「そんな意味だったんだ。知らなかった。」と言い、もう使わないと約束してくれましたが、果たして守られるは不明です。今後の成り行きを見守りたいと思います。

 

 もう一つ疑問に思ったことは、一体誰が「キモい」という言葉を彼に教えたのかという問題です。私も家内も使いませんので、誰から聞いたのかを知る必要があると思いました。それで子どもたちみんなに尋ねると「姉ちゃんです。」と一斉に答えました。中学生のFさんが子どもたちだけの時に使っているようで(私の前で使うと注意されるのを知っているので)、A君はそれを真似たのだとみんなが言います。そこで、このままではいけないと思い、反省会の時にFさんに「小さい子どもたちは意味も分からないでFさんの言葉を真似るので、言葉には注意してください。周りの子どもたちが真似をしてもいい建設的・肯定的・建徳的な言葉を使うようにしてください。」と注意しました。Fさんはイケてない顔をしていましたが、良い意味でも悪い意味でも模範になるのは年長者の責任です。年長者の生き方で年下の児童の生き方が左右されるのは当たり前の話ですから、年長者はその自覚を持つことが必要なのだと話しました。こちらも果たして理解してくれたものやら疑わしいので、コントの成り行きを見守りたいと考えています。我が家では、毎日がこんなことの繰り返しです。でも、この繰り返しが彼らの成長には必要なのだろうと思うようにして、飽きもせずに同じことを繰り返して行きたいと考えています。

 

 

ブログ00074 「我慢の限界」 2020年3月26日

 昨夜、E君の様子がおかしく、部屋で荒れているように思えたので、話を聞きに行きました。私は、おかしいなと感じたらいたずらに時間を置かずにすぐに話を聞きに行くように心がけています。それは、時間を置けば置くほど事態は悪い方向に進んでいくことを経験上知っているからです。何でもそうですが、早めの対処が最善であると考えています。E君の部屋を訪ねて「イライラしているようだけど、どうかしたのかい。」と尋ねると、「理由もなくイライラして、つい壁を叩いてしまいました。」と言うものですから「人は理由なく壁は叩かんよ。何か理由があるんでしょう。何でも聞くから思っていることは話してごらん。」と続けて聞くと、ほろほろと涙を流し始めました。これはじっくり話を聞かないといけないと判断して、彼の部屋の中に入れてもらいました。しばらく、彼の気持ちが収まるのを待ってから繰り返し理由を聞きました。彼の話を簡単にまとめると、「新型コロナウイルスの影響で、学校に行って友達には会えないし、外出して親しい友達と遊ぶことはできないし、小さな子供たちが自分たちばかりゲームしてやらせてくれないし、他の児童が悪いことをしたあおりを受けて自分も叱られるし、一生懸命頑張ってホームで生活しているのに実親との面会の日にちも決まらないし、いつになったら帰れるのかも分からなくて心が落ち着かず我慢できなくなってしまいました。」というのが大体の理由でした。彼は、実親の元に帰れる日を夢見てホームで頑張って生活しています。それでも、たまにはその頑張りが辛くなることがあります。他人の家で遠慮しながら生活する日々は、決して容易なことではありません。実親の元に帰れる日を待ち望んで、いろんなことを我慢し、生活を頑張っています。そのことは、近くで見ている私はよく知っています。ですから、私なりにホームのルールを破らない形で、彼の頑張りには答えてあげたいと思っています。

 

 まず、ゲームに関しては、児童の人数が多いので全員が公平に行うというのは難しいですし、小さい児童は人を押しのけてでも我先にやろうとしますし時間も守りませんので、その勢いにE君はどうしても遠慮することになり、結果できる時間が無くなって我慢させられることになります。それで、以前使っていた小さなモニターとPS4を決められた時間に貸出し、部屋で行えるようにしました。これで、他の児童に邪魔されないでゲームができます。母親との面会に関しては、今日児童相談所に行って担当ケースワーカーに会って面会交流の話を速やかに具体的に進めてくれるように要望しました。すると、明日の1時から面会できることになりました。「やればできるんじゃん。」と思いつつも、言わなければ動いてくれないケースワーカーに少なからず苛立ちも感じましたが…。とにかく、面会できることになって本当に良かったと思います。デイサービスから帰ってきた彼にさっそく話しましたが、非常に喜んでいました。昨日の今日の話ですから、彼にとっては大きなサプライズになりました。明日を楽しみに、今夜は床に就くのでしょう。彼の喜びは私の喜びです。私も安らかに床に着けそうです。願わくば、明日の面会が幸いな時間になりますように。

ブログ00075 「面談」 2020年3月27日

 今日、予定通りにE君を実親さんとの面談のために児童相談所に連れて行きました。別室で面談が終わるのを待っていたので、私にはどんな話と交流がされたのかは分かりませんが、久しぶりの面会にE君も満足そうでした。里親は、委託児童の生活支援の役割は担ってはいますが、実親さんの家庭事情を詳しく知ることや面談での交流がどうなのかを確認することはできませんし、今後の帰宅の可能性等の措置解除に向けての具体的な準備の相談に乗ることもできません。ひたすら児童相談所の担当ケースワーカーの判断を伺うことしかできません。E君の場合、小さな問題(思春期ですから)はあるものの、ホームでの生活は安定しており、落ち着いた生活を心がけていますので、帰宅できる準備は充分に整っている状態だと思います。警察によって保護されて児童相談所に連れてこられた時のように、横柄で乱暴で手の付けられない児童とは似ても似つかない変貌ぶりを見せており、私個人としては「本当によく頑張っているなぁ。」と思います。実親家庭での自らの振舞を後悔し、もう一度やり直そうとの彼なりの努力を見て取れます。そんな彼を見ていると、一日でも早く返してあげたいと心より願います。

 

 しかし、幾ら児童の側の準備が整ったとしても、受け入れる側である実親さんの準備ができなければ(物心両面)、家庭引き取りには至りません。そこが何とも悩ましいところでして、児童の帰宅準備ができているが実親さんはできていない。しかも、家庭引き取りができない詳しい理由を里親は知らされませんし、知らされた場合にも他言しないように(児童にも)口止めされますので話せません。家庭復帰を目指して一生懸命頑張っている児童であるほど、なぜ自分は帰れないのかその理由を知りたがります。特に中学生にもなると知的に納得したいという欲求が強く、明確な説明を里親に求めてきます。しかし、彼らが納得できるような明瞭な答えを与えられず、「何でだろうね。」と言うことしかできずに悔しい思いをします。里親も心にフラストレーションを抱えることになります。

 

 私個人としてはあやふやな説明をするよりも、辛い現実であっても正直に説明してあげた方が良いと考えています。どのような事実であれ、それを隠すことは児童に不信感を抱かせてしまいますし、帰宅できなことに納得することもできません。恐らく、児童相談所の児童を傷つけたくないという配慮からなのでしょうが、正直に話さないことの方が長い目で見れば深く傷つけることになるのではないかと私は考えます。本当の優しさは事実を包み隠さず話してあげ、その上で児童が事実を受け止められるように支援することではないかと思います。そうでないと、彼らは前には進めません。私は、里親の役割は里子と共に事実に向き合い、一緒に考え悩み、受け止めて前に進めるように援助することにあると考えます。事実を伝えるだけでなく、それを克服できるまで支援するところまでが務めです。そのために里親はいるのだと私は思います。にもかかわらず、児童に伝えるべき実親さんの事実までも知らされないことに、私は大いに不満を感じています。児童相談所の職員には、もっと里親を信頼してもらいたいものだと思いますが、生意気な考えでしょうか。

ブログ00076 「怒り」 2020年3月28日

 デイサービスの送迎車の中で、座席をめぐってA君とB君が派手に争って喧嘩をし、先生が厳しく注意したとの連絡がありました。たかが座席のことでか(お世辞にも旧型のとても乗りたいと思うような車ではないのに)と呆れてしまいました。「長距離の移動ならまだ知らず、デイサービスの事業所までのたった20分間くらいどこに座ってもええやんか。」と私は思うのですが、彼らにとっては死活問題ほどの大事件なようで口角泡を飛ばす争いをしていたようで、先生も見かねて注意したそうです。しかも、行きの送迎車の座席も取り合いになり、引かないA君に座席を譲ったB君が「帰りは自分が座るから」と約束を交わしていたにもかかわらず、帰りもA君が座ると言って聞かなかったために争いになりました。客観的な情報だけを聞くと明らかにA君のわがままであり、彼が悪いという判断になるのですが、それだけではなくA君とB君の性格も要因になっていると思いました。A君は、行きの送迎車で交わした約束を夕方には忘れていますから、そもそも譲る根拠がありません。一方B君は、まったく融通の利かないアスペルガーですから約束の遵守を頑固にどこまでも容赦なく要求します。こんな2人が話し合っても解決する訳もありません。それどころか、興奮状態がどんどんエスカレートして罵り合うばかりです。いつものことです。

 

 争いが起こる度に、A君には「腕を組んで(相手に暴力をふるわないため)、思いついたことをすぐに話さないで、深呼吸をしてから(心を落ち着かせてから)B君と話しなさい。それでもだめなら先生に相談しなさい。」と言っていますがまったくできません。B君には「正しいからと言って相手を説き伏せようとどこまでも意固地に要求するのではなく、君の方がお兄ちゃんなんだから先生に事情を話して介入してもらいなさい。」と勧めていますが、こちらもまったくできません。お互いに解決する力がないにもかかわらず、大人の手助けを求めようとしません。すぐに2人きりの世界に没入し、お互いの批判合戦に終始して傷つけ合うのです。何と愚かなことか。どうやったらこの2人の心に届く指導ができるのかと日々悩みながら取り組んでいます。毎日毎日、無力さを痛感する日々を送っています。

 

 しかし希望もあります。幼い頃のA君は、むやみやたらに気にくわないことがあると暴力を振るっていましたが、この頃はそういうことはなくなりました。あれほど何度も何度も忍耐強く話したにもかかわらず、一向に暴力が収まることがなく、何度となく幼稚園の先生やお友達のお母さんに頭を下げて謝りました。気の休まる日がありませんでした。午後の3時、4時ごろに電話が鳴ると、「また何かやらかしたのではないか。」と心臓がバクバクしました。その頃の私たちの一番嫌いな魔の時間は、その時間帯でした。その時間が近づいていてくると、「今日は鳴らないでくれ。」と毎日心で祈ったものです。しかし、たまに5時を過ぎて安心していると幼稚園や学校から電話がかかることもあり、しんどい毎日を送りました。そんなA君ですが、今では暴力を振るうことがほとんどなくなり、お友達に怪我をさせて謝りに行くこともなくなりました。しかし、今度は言葉の暴力で人を傷つけるようになりましたので、違った意味で苦労がなくなった訳ではありません。それでも遅々たる歩みであっても、彼は確かに成長していると思いますので、私はそこに一筋の希望の光を見ようとしています。そして、きっといつか必ず今の問題も克服できるように成長してくれると信じたいと思っています。それはB君も同様です。彼もきっと成長してくれると思います。ですから、今日も将来の成長した彼らの姿を思い描いて、忍耐を失わずに同じ指導を繰り返していきたいと思います。頑張れ!自分。

ブログ00077 「声が大きい」 2020年3月29日

 私が音過敏症だということは、以前のブログでもお話しいたしました。ですから、賑やかな子どもたちに囲まれて生活することは、苦痛が伴うことであり大きな忍耐を必要といたします。子どもはうるさいものであり、静かに生活するように求めること自体が誤っています。楽しくて、うれしくて、幸せだと自然と声も大きくなるのは当たり前の話ですし、子どもたちが騒いでいる方が幸せな生活をしていることの証であるとも言えます。子どもが賑やかなのが辛いなら、児童養育の事業には向いていないと思われる方も多いでしょうが、私は向いていると思うから里親をやっている訳ではありません。どちらかというと子どもは嫌いです。うるさいし、しつこいし、汚いし、下品だし、言うことは聞かないし、口答えするし、厚かましいし、物を大事にしないし、大切な物を無くしたり壊したりするし、世話をかけるし、同じ失敗を繰り返すし、悪いことをしては他人に怒られて謝りに行かせるし、すぐ病気になるし、お金はかかるし、自分の時間は無くなるし等など、とても好きになれる存在とは言えません。それなのに里親をやっているのは、子どもが好きだからでも向いているからでもなく、ただ必要なことだと思っているからです。虐待を受けたり、実親に反抗して家庭で暴れたり、非行に走ったり、貧困のために養育を放棄されていたり、不登校や引きこもり等になって実親さんが養育できなくなった児童を誰かが預かって育てなければ、彼らの人生はどうなるのでしょうか。彼らとともに住んで生活する中で、自らが今までの自分の生活を見つめ直し、乱れた生き方や誤った生き方を改める機会がなければ家庭には帰れませんし、社会で役立つ人間として生きていくこともできません。どういった形であれ、彼らには人生をやり直せる機会を提供してあげるべきだと私は考えます。

 

 広い世間ですから、好きで里親をやっている人もいるかもしれませんが、先ほども話しましたように私は違います。好きだからでも向いているからでもなく、ただ必要だと思うからやっています。「そんな動機で里親をするのはどうなの?」と思う人もいるでしょうが、「好きじゃない。向いていない。」ということを口実にして被虐待児童を助けようとしない人の方こそどうなのと思いますし、そんな人たちよりかはまだましだと思っています。気を悪くされたらお許しください。確かに、好きでやる方がいいに決まっていますが、そんな人がこの世の中にどれほどいるというのでしょうか。そんな希少な人だけに頼った児童福祉では、溢れている被虐待児童の受け皿としては到底足らない事は誰の目にも明らかです。だから、私のように弱さを持っている者も参入しなければ、被虐待児童を救うことはできないのです。それでもまだまだ里親の数はまったく足りていないのが実情です。弱さを抱えていてもいいから、1人でも多くの方々に里親として参入していただきたいと思っています。批評家も傍観者もいりません。必要なのは舞台に上がってくれる人です。

 

 話がずれてしまいましたが、音過敏症の私が里親を続けていくためには、私の弱さについて子どもたちの理解が不可欠です。ですから、私は正直に自分の弱さについて話しています。彼らなりに真剣に聞いてくれて「分かった。」と言ってくれますが、私が過ごしやすい環境になることはなく、ただただうるさい毎日です。それでも、たまに「静かにしよう。」と言ってくれる子がいたり、ドアを静かに閉めようとしてくれたり、騒いで暴れている児童を制してくれたりしてくれているのを見ると嬉しくなります。そんなことを話すと、また「子どもに気を使わせて可哀想だ。」と批判する人が現れますが、家族ですからお互いにいたわり合いながら生きるのは当然のことだと思います。親だけが子どもに気を使って生活すべきでしょうか。子どもは王様ではありませんし、雇い主でもありません。1つ屋根の下で生活を営んでいる家族ですから、親も子もお互いを愛し、いたわり、助け合って生活する共同体だと思っています。みんな家族を構成する大切な人員です。ですから、私は彼らを家族だと思いますので自分の弱さを子どもたちに話しますし、助けて欲しいとお願いします。それを聞いて子どもたちなりに受け止めて助けてくれます。その時に「家族だなぁ。」と思いますし、自分も家族の一員として彼らのためにできることをしようとも思います。家族とはそういうものだと思いますが、間違っているのでしょうか。

ブログ00078 「保護者設定」 2020年3月30日

 我が家では、不公平にならないように6人全員に3DS(色違い)を貸し与えています。なぜ与えないで貸しているのかというと、自分の物だと思うと粗末に扱って、無くすわ壊すわで少しも大切にしようとしないからです。私としましては、大切に使っているのが分かればあげようと思っていますが、借り物でも大事にしようとしない彼らの姿勢に、今日は堪忍袋の緒が切れてしまいました。いつも、使い終わったら電源を切って所定の場所に置くようにと言っているのに、電源が入ったままであちらこちらに置きっぱなしにしているし、許可なくネットにつないではいけないと言っているのにつないでいるし、3DSの本体設定を変更できないように勝手に保護者設定していました。デイサービスから帰宅した子どもたちに、約束したように使い終わったら3DSの電源を切ること、所定の場所に片づけること、許可なくネットにつながないことを注意し、保護者設定を解除するためにB君に暗証番号を聞いても「設定していないし、暗証番号なんか入力していない。」と言い張ります。私が「そんなわけないやろう。B君が設定していないのになんで設定されるのさ。」と尋ねると、「A君とD君に貸したから(6人全員が持っているのですから本体を貸す意味が分かりません)、A君かD君がしたんだと思う。」と言います。それでA君とD君に尋ねても「僕たちじゃない。B君が自分でやって忘れたんだと思う。」と答えるので、まったく埒が明きません。ここで犯人捜しをしても意味がないので(どうせ正直に答えないか、やったことをすっかり忘れてしまっているかのどちらかですから)、B君に「誰がやったにしろ。3DSを他の子に貸してはいけないと言っていたのに、その約束を破って貸した君が悪いとは思わないかい。」と話して注意しました。

 

 私は貧しい時代に育った人間ですので、物を大切にしないことが非常に気になります。物が溢れている現代においては時代錯誤の考えなのかも知れませんが、できるだけ大事に扱って長く使うことが良いことだと思っています。大切に扱えば長く使えますから、頻繁に新しい物を買わなくてすみますので経済的ですし(この頃は捨てるのにもお金がかかりますから)、ごみも減らせますので環境問題にも貢献できます。3DSのような高価なものであれば尚更(もう製造されていませんし修理もできません。)、慎重に扱うべきだと思うのですが、子どもたちはまったく意に介していません。乱暴に扱うわ、どこにでも放置するわ、勝手にベタベタとシールは貼るわ、挙句の果てには、A君は先日3DSを紛失するし、B君は勝手に保護者設定をして変更でないようにしてしまっています。本来なら自分の物でも大切にすべきですが、彼らが持っている3DSは私からの借り物です。借り物ならもっと大切にしなければならないのに、彼らは借り物だということすらすっかり忘れているのです。「あきれて物も言えない。」とはこのことです。

 

 彼らのこれからの人生を考えますと、決して裕福な生活を送ることができる訳ではありません。生活費をやりくりして欲しい物を購入する人生になるのに、物を大切にすることを学んでおかなければ、楽しみの少ない生活になってしまいます。私のホームでの養育方針は、いつでも彼らが自立した時に少しでも困らないような生活習慣を身に着けさせることです。いつも自立後の彼らの生活に力点を置いて教育しています。そんな里親の気持ちも理解することなく、彼らは今のこの一瞬の楽しみだけを求めて生きています。「糠に釘。のれんに腕押し。猫に小判。」状態です。毎日空振りの日々ですが、彼らの幸せな将来を願って諦めずに話し続けたいと思います。この頃特に、児童養育に必要なのは「忍耐と寛容」だなぁとつくづく思います。

ブログ00079 「反抗」 2020年3月31日

 令和元年度も今日で終わりを迎えました。平和に終えて新しい年度を迎えたいものだと思っていましたのに、デイサービスでA君が先生に対して反抗的な態度を取り続けて困ったというお話がありました。あれほど、「先生には素直に従いなさい。」と教えているのに、まったく効果がありません。確か、今朝デイサービスに出かける時に「今日はいい子にしてきます。」と高らかに宣言して行ったはずなのに、あれはいったい何だったのか、それを思い出して少なからずガッカリしてました。子どもたちを出迎えた里母が、.よくよく先生の話を聞いてみると「先週からずっとそうだったので、明日も反抗的だったら注意していいですか。」とおっしゃるので、「是非とも叱ってください。」と伝えたそうです。私は後でその話を聞いて事情を知った訳ですが、「よくもまぁ、1週間も注意もせずに我慢たもんだ。」と少し呆れながらも、デイサービスの先生方は我慢し過ぎじゃないかと思いました。この頃は、モンスターペアレントも多く、ちょっと注意しただけで文句を言われたりするからなのかも知れませんが、先生方は遠慮し過ぎのような気がいたします。それに、子どもたちも生意気になって来ていて、ちょっと厳しくすると簡単に「訴えてやる。」なんていう子どももいて、教育に携わる先生方は本当に大変だと同情いたします。

 それにしても、やはりこの頃の先生方は子どもに気を使い過ぎのようなきがします。腫れ物にでもさわるように、優しく丁寧に慎重に言葉をかけて接しているように感じられます。でも、その優しさが子どもたちは仇になり、横柄で偉そうで無礼な態度で先生に臨むようになります。子どもはすぐに調子に乗って付け上がる存在です。悪いことをしても叱られなければ大人を舐めてかかり、さらに悪いことをしでかします。彼らは、いつでも大人を試しています。どこまでなら許されるのか、どこまでやったら叱られるのか、というギリギリのラインを探ろうとします。それをすべての大人に行い、その大人との距離感(接する態度)をどの程度取ればよいのかを定めて行きます。そして、それぞれの大人1人1人との距離感を自分なりに見つけます。ですから、彼らには素直に従う大人もいれば、横柄に接しても構わない大人もいるのです。接する大人すべてに対して同じ距離感(接する態度)ではなく、それぞれに違った距離感を見つけて接しているのです。子どもが大人にどう接するかは、大人の子どもに対する姿勢によって決められるのだと私は考えています。もし、子どもに舐められているのなら、その子を甘やかせ過ぎなのだと思います。

 

 A君は私には従順で、素直に言うことを聞いてくれます。しかし、外ではどうやら違うようで、先生方から話を聞いて驚くこともしばしばです。私から言わせれば、「それは先生方の指導に問題があるのではないか。」と思ってしまいます。ダメなことはダメだし、間違っていることは間違っているし、人を傷つけるようなことをすれば叱られるのは当然です。そんな当然なことを控えてしまうから、「なんだ、やっても怒られないんだ。」と思って平気で繰り返すことになりますし、彼らは、そんな自分を叱らない大人に不信感を抱き見下すようになるのです。彼らだって悪いことをしていることぐらい知っています。バレたら怒られることぐらい分かっています。それなのに、大人が叱らなければ、「自分は大事にされていない。何をやっても気に留めてくれない。とうなってもいいと考えているんだ。」と思ってしまうのです。悪いことをした時には、真剣に思いっきり叱らなければなりません。それが本物の愛情だと私は思います。きっと彼らは、その叱責の中に自分への愛を読み取ってくれるものだと思っています。当然、言葉であれ、態度であれ暴力があってはなりません。ただ、真剣に叱る姿勢が必要だと思います。学校の先生もデイサービスの先生もいたずらに我慢しないで(我慢することは優しさではありませんから)、しっかりと子どもとと向き合って叱って欲しいと思います。そうすれば、A君の生活は変わっていくと思うのですが、その考えは間違っているでしょうか。

ブログ00080 「出直し」 2020年4月1日

 昨日は、令和元年度最後の日であり、今日から新しい年度が始まります。それで、昨夜の反省会の後で中学生(新中学生も含めて)4人を集めて、新年度からの生活について話をしました。先月より新型コロナウイルス感染防止のために休校になり、ずっと家庭で生活することが多くなり、すっかり生活が乱れてしまいました。特に、デイサービスに行かないで1日ホームで過ごしているFさんは、毎日ダラダラと生活しているし、寝坊して朝ご飯も食べに来ないし、受験生なのに勉強もしないでいつも昼寝はしているし、何をしているかは知りませんが夜遅くまで起きていますので(と言いましても午前1時半には外からリモコンで強制的に照明を消しますが)、新年度が始まるというkこのタイミングを利用してだらけた生活を引き締めようと考えたからです。詳しくはお話ししませんが、4人それぞれの生活課題を話し、入進学に向けて気を引き締めて準備するように注意しておきました。

 

 私たちの人生には、やり直しのチャンスはたくさん準備されています。1日ごと、1週間ごと、1か月ごと、1年ごと、決意を新たにして出直す機会があります。私たちは弱い存在ですから、目標を立てても面倒くさくなったり、諦めたり、忘れたりしてすぐに挫折してしまいます。そんな私たちにとって、やり直しの機会が与えられていることは、本当に感謝なことだと思います。もう一度、頑張ってみようと決意を新たにしてチャレンジできるからです。小さな子どもたちにとっては、長い期間を要する目標は難しいので、1日単位で取り組んでいます。今日がだめなら明日、明日がだめなら明後日と、何度でもやり直せます。ですから、A君やB君は、毎朝「今日はいい子にしてきます。」と言って、デイサービスに出かけて行きます。昨日はだめだったけど、今日は頑張ってみようとやり直しのチャンスを得ての言葉です。区切りがあると言うのは、私たちにとって本当にありがたい話だと思いながら、毎日彼らを送り出しています。こんな良い制度を使わないのはもったいないので、新年度が始まるタイミングで中学生を集めて話をした次第です。
 昨日の話の成果か、Fさんもちゃんと朝食を食べに降りてきました。少しは効果があったようです。こういった機会を利用して、ちょくちょく彼らが克服すべき日常生活の課題を思い出させることは必要なことかなと思います。