ブログ00081 「弁当」 2020年4月2日

 里母は、毎朝のように里子のために弁当を作っています。今は新型コロナウイルスの拡散防止のために学校は休校中ですが、5人の里子はデイサービスに通っていますので彼らの弁当と、ついでに留守番をしている里子1人の合計6人分の弁当を作らなければなりません。早い時には朝の3時から起床して弁当作りを始めています。そんな毎日を送っていると疲れ果ててしまいますので、手作りの弁当にこだわらないでたまには買ってきた弁当や菓子パンを持たせれば良いと思うのですが、どうも気が進まないようです。いつも全力で子どもの養育に携わらないと手抜きをしているようで、そんな自分が許せなくなるそうです。でも、子どものために何かをするということには切りがなく、しようと思えばどこまでも限りなくやることがあります。どこかでここまでにしようとケリを付けなければいつまでも終われません。ですが、里母はそれが苦手なようで、どこまでも限りなく里子のためにやろうとしてしまいます。それをそばで見ている私には、危なかしくて仕方ありません。ですから、彼女を守るためにたまに強制的にやめさせることもあります。そうでもしなければ、彼女は疲れ果てて倒れてしまうと思うからです。

 児童養育という分野の働きは、女性にとって加減の難しい働きなのだと思います。愛情豊かな女性にとっては、どれだけ児童のために尽くしても尚尽くし足りないと思ってしまう傾向があります。そのために、知らず知らずのうちに自らを酷使してしまって疲れ果て、長く養育に携わることができなくなる恐れがあります。ですから、私は愛情の豊か過ぎる女性は児童福祉には向いていないと思っています。児童福祉の働きは、全力で走る短距離走ではなく、長く従事することが求められる長距離走です。力を抜いて、マイペースで、無理をしない程度に携わる働きだと思います。そうでないと、乳児院から来て自立するまでの16年間の養育に耐えられません。途中で放棄することのできない働きであることを思うと、最後まで養育を続けれるようにやるべき事とやるべきではない事のケジメをつけ、自らをコントロールする必要があると思います。児童養育においては、やらない勇気が求められているのです。これは、愛情豊かな女性には難しい話です。ですから、私のように平気でやらない選択ができる冷酷な里父が、愛情豊かな里母と一緒に事業に携わることで、バランスの取れた養育ができるのではないかと考えます。そういった意味で、私たちは良き協力者なのだと思います。

 

 今日も、私は里母の愛情の暴走にブレーキを掛けつつ、一方では里母から愛情の足りなさを教えられながら養育に携わっています。お互いの長所と短所を理解し、お互いの欠けたところを補い合いながら、これからも長く児童福祉事業に携わってまいりたいと思っております。

ブログ00082 「似たもの同士」 2020年4月3日

 似たもの同士が人間関係を良好に保つことは難しいと感じます。似たもの同士は、自分と同じような言動をすることが気に障るようで異常に反応し、嫌悪感をあらわにいたします。それは、子どもの世界だけの話ではなく大人も同様です。私たちの周りで「あの人のあんなところが嫌いだ。」と言っている人を見かけますが、私の経験上から言わせていただければ「あんたもそうだけど。」と思うことが多いと感じます。人間は、自分の持っている欠点には敏感で、相手が同じ欠点を持っているとすぐに気が付きますし、そのことに対して強い嫌悪感を抱くようです。ですから、相手の嫌なところが自分の嫌なところだと考えた方がよいのではないかと思います。あくまでも私見ですが…。私たちのホームでは、B君とCさんが似たもの同士で、このところ度々感情を衝突させてもめています。2人とも上の空で私たちの話を聞いているので同じことを繰り返し失敗しますし、自分のことは棚に上げて厳しく人の失敗を指摘して追い詰めるところも似ています。そのため、どちらかの失敗が引き金になって、この2人によるお互いに対する批判がエスカレートすることもしばしばです。

 

 今朝もジャンバー問題で批判の応酬合戦をしていました。だらしないB君が、デイサービスに着ていく自分のジャンバーを見つけられず、みんなに探してもらったようなのですが、その頼み方が横柄だったと言うことでCさんが激怒したそうです。私はその現場を見ていませんでしたが、居間に行くとB君が泣いていたので理由を尋ねるとそういうことでした。私から言わせれば、どんな頼み方をしたかは分かりませんが、なんも泣くまで追い詰めなくてもいいのではないかとも思いましたが、B君には「自分がちゃんと片づけなかったのが悪いのであって、それをみんなに探してもらうんだから丁寧にお願いすべきだったんじゃない。」と言うと、すかさず「丁寧に頼んだのに、Dさんが勝手に怒って僕を責めるんですよ。」と答えるのでDさんに聞くと「そんなことありません。威張って命令するから注意したんですよ。」と口を尖らせて主張し、近くにいたA君とD君を味方につけて攻勢に出てきました。このままでは非難合戦が続くだけで埒が明かないので(私はその現場を見ていませんから)、とにかく「B君は頼みごとをする時には丁寧にお願いするように。Cさんは泣くまで責め続けないで優しく注意するように。」と指導し、お互いに謝らせてその場を収めました。

 

 似たもの同士の2人は、相手の行動が気になるようでいつもお互いを観察しています。見なきゃいいのに、穴が開くほど観察し合っています。そんなに見ていたら悪いところが気になるのは当然のことです。私が昔お世話になった先生から「人間関係を良好にしたいなら、片目を閉じて片耳をふさいで人と関わりなさい。」と教えられたことを思い出します。この2人がそのような関係を築けたら、少しは争いの少ない毎日になるのになぁと思いました。

ブログ00083 「好き嫌い」 2020年4月4日

 我が家に来る児童は、乳児院からであれ一時保護所からであれ食べ物に対する好き嫌いの激しい児童が多いと感じます。恐らく、幼い時より何でも好き嫌いなく食べれるようにと、親から手をかけて育てられてことなかったことに理由があるんだろうと想像いたします。端的に言えば、ネグレクト(育児放棄)による弊害だと思います。子どもは、味覚が発達していない幼い時期に、手間をかけて色んな食材を食べさせていると何でも食べれるようになります。幼くても好まない食材はありますが、繰り返し繰り返し我慢強く食べさせていると食べれるようになりますし、成長した時にも好き嫌いなく食べれるようになります。その苦労を面倒がって嫌いな物を食べさせないでいると、成長した時には絶対に受け付けない食材になってしまいます。つまり、子どもの好き嫌いは、幼い時に親が横着した結果だと私は思っています。ですから、我が家に委託されてくる被虐待児童は、ほぼ例外なく好き嫌いの激しい状態でやって来ます。

 

 好き嫌いの激しい児童でも、幼い時にホームに来れば矯正することもできます。私たちのホームには、2歳の時に乳児院から来た児童が4人いますが、みんな好き嫌いの極端な児童ばかりで、嫌いな物を頑として受け付けようとしませんでした。彼らが好む食材はたいてい肉とパンとお菓子で、それ以外は明らかに不機嫌になり、怒ったり、わざと下に落としたり、フォークで突いたり、皿をひっくり返したり、掴んで食べ物を投げた子どももいました。それでも時間をかけて忍耐強く少しずつ食べさせていると、普通に食べれるようになりますし、成長した時には嫌いだった食べ物だったことさえも忘れています。そんな経験をたくさんしてきましたので、幼い内ならば好き嫌いは矯正できると知っています。そうやって、乳児院組の4人は、好き嫌いなく何でも喜んで食べる児童になっています。

 

 問題なのは、成長してホームに来た児童たちです。私の里親としての経験上から言いますと、彼らの好き嫌いを矯正することはできません。だからと言って、私はまったく食べないなんて言うのはあり得ないと思っています。まったく食べないというのは、一生懸命作ってくれた人に対して失礼な行為ですし、自立して社会に出て行った時に食べれない食材があることで不利益を被る機会に直面するやもしれないからです。ですから、ほんの少しでも食べれるようにと指導いたします。Fさんはトマトが嫌いで少しも食べれないと言っていましたが、私は「アレルギーでない限り(アレルギーの場合は食べてはいけません。)少しでも食べれるようになった方がいいよ。」と話します。「もし、君の大好きな人がトマト農家の跡取りだったらどうするん。まったく食べない訳にはいかんやろ。もし、君が就職した会社がカゴメやったらどうするん。トマトケチャップを売りにしている会社の社員がトマトが嫌いではだめやろう。もし、何億と言う大きな取引の会食の席で、大事な取引相手がトマト料理を食べるように勧めた時に食べなかったら商談が破談になるよ。」等など、様々な状況を想定して(恐らくは起こらない場面ですが)、食べれるようになっといた方がいいと話します。それと共に、ホームでは嫌いな物でも少しは食べるルールになっているからといって、繰り返し勧めていると根負けして少しは食べるようになります。それでも食べようとしない子は、私たちのホームにはおれません。そんな子どもは、今後も従うことができませんし、後々大きな反抗事件をおこしのは明かですから他に行ってもらいます。我が家に来てFさんも変わりました。今夜の夕食に出た「アスパラベーコン炒め」に関しても、食べる前に「アスパラが苦手なので減らしてもいいですか。」と言って量は減らしましたが、少しは食べていました。それならOKです。アスパラは健康にもいいですからね。少しではありますが、彼女の成長ぶりを感じれたひと時でした。

ブログ00084 「放尿」 2020年4月5日

 ファミリーホームでは、事件のない日はありません。今朝、A君が2階洗面台の前で放尿したのではないかという報告がCさんからありました。別館にいた私に報告する前に、Cさんが自分なりに掃除したそうですが、匂いが取れないと言うことで相談に来ました。Cさんが私に伝えに来る前に、自分なりにすぐに掃除をしてくれたことはうれしいことでした。多くの場合、見ぬふりをして放置する児童が多い中、たとえ十分ではなかったにしろ自ら進んで掃除してくれたことには感動しました。とにかく、A君を注意するのは後回しにして、Cさんが尿を拭き取ってくれていたので床を除菌シートで隅々まで拭き上げ、洗面台も拭き残しのないように丁寧に拭きました。私が掃除をしているとD君がやってきて「僕もやります。」と言って手伝ってくれました。洗面台に掛けられてるタオルはCさんが1階の洗面所に持って行って洗剤できれいに手洗いしてくれました。そんな2人の姿を見て、「いい子に育ってくれたなぁ。」と思いました。感動しましたので、Cさんに2ポイント、D君に1ポイント進呈しました。

 

 さて、問題のA君ですが、以前も自分の部屋で放尿したことがありました。その時の理由は、1階のトイレに行くのが面倒くさかったからだというものでしたから、1階のトイレに間に合わないと思ったら2階のトイレを使っても良いということにいたしました。でも私はそれだけの理由だったとは思っていません。おそらく、部屋の中で放尿したらどうなるのか試してみたかったんだと思います。大人には馬鹿げた話ですが、幼い子供にはよくある理由です。特に先読みできない子どもは(それをやったらどんな罰を受けることになるかを予測できない。)、とにかくやってみたくて仕方ないのです。理性よりも興味に支配されているので、その欲求を抑えきれないことが多いのです。そんな奇異な行動も、理性の発達とともに制御できるようになるのですが、発達が遅れているA君にはもう少し時間がかかるようです。たとえそうであったとしても、悪いことをやれば叱られるのは当たり前のことです。

 

 今回の理由についても尋ねましたが「間に合わなかった。」からだと言いますが、洗面所の隣はトイレですからそんなはずはありません。A君に「そうじゃなくて、どうなるかここでやってみたかったんでしょう。」と聞くと、「そうです。ごめんなさい。」と言うので「やってみてどうだった。」と尋ねると「面白かったです。」と答えました。そこで、「やりたいからやっていいということじゃないんだよ。何で床でしっこをしてはいけないか分かるかい。」と尋ねると「分かりません。」と言うので説明しました。私は頭ごなしに叱るのではなく、できるだけ分かるように理由を説明するように心掛けています。そうでないと叱られていることに納得できませんから…。A君とは、「木でできている床にしっこをかけると床が腐るんだよ。2階の洗面所の床が腐って穴が空いたらどうなる。」「落ちます。」「そう、落ちてケガするでしょう。1階でもだめだよ。床下に落ちてケガするかね。しっこをしていいのは、腐らない陶器でできている便器だけなんだよ。だからみんなトイレでしてるんだよ。分かったかい。」「分かりました。これからはしません。」というようなやり取りをしました。この約束を守るか守らないかはA君しだいです。今後の成り行きを見守りたいと思います。そして、同じ失敗を繰り返すなら、また同じ説明をして注意するだけです。やっていることがだめなことなのだと分かっていれば、そのうち理性が欲求を抑えることができるようになります。私は、その日を忍耐強く待つのみです。

ブログ00085 「入学式前夜」 2020年4月6日

 明日は、中学生に進学する2人の里子の入学式です。新型コロナウイルスの影響のために保護者の参列が禁止されていますので、残念ながら彼らの晴れ姿を見ることはできませんが、とにかく無事に中学校進学を迎えることができてホッとしています。やはり、里親にとっても里子にとっても、小学校卒業と中学校入学は人生の一区切りを迎えることであり(乳児院から我が家に来て10年の節目)、今までの彼らとの生活を思うと感慨無量です。いろんな苦労もかけられましたが、喜びもまたたくさんありました。これからは、彼らの人生に取りましても一段上のステージへと進んでいくことになります。

 

 小学生の時には特別支援学級で甘やかされて学校生活を送っていましたが(学校に来るだけで喜ばれ、ちょっと真面目に課題に取り組むと過大に褒められていました。)、小学生の時よりもずっと厳しい学校生活が要求されることになります。体力作りの時間も長くなりますし、勉強も難しくなるし、礼儀作法にも厳しくなりますし、責任ある行動も求められますし、売り物になるように丁寧に作品を作るようにも指導されます。小学校の時とは局面が異なり、より大人としての言動が求められるようになります。そのギャップに戸惑いながらもついて行けれるか心配にはなりますが、誰しもが通る道ですので「しっかり鍛えられたらええわ。」と思っています。そして、頑張っても難しいようであれば、少し手助けはしてあげようと思っています。ほんの少しですねど…。

 

 中学校入学に備えて、希望に溢れて嬉々として学生服、ジャージ、靴、リック、作業服、学用品等を購入していた彼らですが、彼らが思い描いている中学校生活でなかったにしても、彼らなりの喜びや楽しみ、やり甲斐や満足感を見つけられる生活であるようにと心より願っています。入学式前夜にして希望と共に緊張も入り混じった複雑な思いになって来ているようですが、それは私たち里父里母も同じです。何をしていても、「素晴らしい先生と良い友達に巡り合えればいいのだが。」とつい考えてしまいます。私たちも希望と不安が入り混じった感情を抱いており、「血のつながりはなくとも共に生活する年月が、私たちを親子にしたんだなんだなぁ。」と感じています。そんな私たちは、彼らの中学校生活に幸あれと心から願っています。

ブログ00086 「布マスク」 2020年4月7日

 今日、児童デイサービスの先生から子どもたちのためにということで布マスク5枚をいただきました。国の方から優先的に配布されたものだそうで、児童1人に1枚あたるそうです。それ自体はうれしい話なのですが、「養育者の分はどうすんですか。」と思ってしまいます。児童ばかりを守っても、その児童の生活支援をしている養育者が病気になってしまったら元も子もないではないですか。感染児童を別館で隔離して他の児童の生活を守ることはできても、養育者が感染したらホームを一時的に閉鎖して保護児童を他の施設に一時保護しなければならなくなり、家庭崩壊につながります。それは今問題になっている医療崩壊と構造は同じです。ファミリーホームは、里親あっての事業であり、もっと里親を大切にしなければ長く事業を続けていくことはできません。里子だけではなく、里親を守ることにも気を使って欲しいものだと思います。まぁ、節約して使っていますので、まだマスクの在庫はありますから今貰わなくても構いませんし、なくなれば手作りするまでのことですから怒っている訳ではありませんが、国のやることはいつでも場当たり的で一面的で、多方面への配慮に欠けた対応であることが多いことを残念に思っての単なる愚痴です。現場を知らない官僚の考えることですから仕方ないのかも知れませんが…。

 

 布マスクと言えば、私が子どもの時には布マスクしかありませんで、小学生の時にはずっと1枚のマスクを何度も洗って使っていたことを思い出しました。安部首相が小さめの布マスクをしている姿がニュースで流れると、「昔はみんなあんな感じだったなぁ」と思い出していましたが、久しぶりに布マスクを手に取って懐かしい気持ちになりました。あの時代の習慣が再びめぐって来るとは思ってもみませんでした。結局、文明は進歩してもレトロは強いと感じました。確かに今どきのマスクに比べて性能は格段に落ちますが、どんな時にも何にでも繰り返し使える優れものです。ただ、無くさないで使用し続けれたらの話です。子どもたちにとっての最大の問題は、簡単に無くしてしまうことです。彼らは例外なく、考えもしないでどこにでも何でも置きます。しかも、何でこんなところに置いたのか理解できない場所に置いて忘れてきます。すっかり忘れていますから探しようもありません。こんな事の繰り返しです。折角優先的に配布してくれた国の配慮が、たった1日で無駄になることがないようにだけ心から願っています。子どもたちには繰り返し念を押して話しますが、果たして期待に応えてくれるでしょうか。何となく、無くしてしまうのではないかという悪い予感の方が的中する気がいたしますが…。

 

 このようにホームにいる子どもたちは恵まれています。確かに、物質的には十分すぎるほどに満たされていると私は思います。しかし、人が求めているのは物ではなく心ですから、幾ら物質的に豊かに満たされてもそれで満足することはありません。彼らが求めているのも心であり、それを与えてくれる人がこの世の中には少ないのです。物なんかいらない、優しい気持ちや温かい思いやり、大切に思ってもらえる気遣いや必要としてもらえる期待、溢れる恵みや包んでくれる愛等が彼らには必要なのです。そんな心を提供してくれる大人とたくさん出会って欲しいものだと心より願っています。

ブログ00087 「環境の変化」 2020年4月8日

 我が家にいます発達障がい児たちは、例外なく環境の変化に弱い児童ばかりです。少しでもいつもとは違う環境になると途端に混乱して、体調を崩したり、奇異な行動を取ったり、周りのお友達に暴力的な言葉や態度になったりします。札幌では4月6日から学校が再開しましたが、3日にして体調を崩す者2人、落ち着きなく股間を触り続ける者1人と症状を現してきている児童がいます。しばらく、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために学校が休校となり、家とデイサービスを往復する毎日を過ごしており、彼らの生活パターンから学校生活というシーンが消滅していましたから、もう一度自らの生活リズムの中に組み込むことにはかなりの時間を必要とします。学校生活が彼らの普段の生活にパターン化されれば落ち着きを取り戻しますので、それまでの間の辛抱となります。彼らは本当に不器用なのです。

 

 昨日、安部首相が「緊急事態宣言」を発出して日本全体が一段と緊迫感を増すことになりましたし、本日北海道でも10人を超える感染者が出たとの報道もされており、折角学校が再開したばかりなのに再び休校になるかも知れないと思うと心が痛みます。なぜなら、ホームの児童たちにまた環境の変化に順応するための苦労を強いることになることになってしまうからです。健常者の児童を持つ親御さんには分からないことだと思いますが、発達障がい児童にとっては相当に大変なことなのです。心も体も不安定になる中、順応するのために苦悩するのです。それを近くで見ている里親の私たちも気が気ではありません。何もできず、ただ近くで見守ることしかできませんが、うまく新しい環境に順応できて元気を取り戻してくれるようにと祈るばかりです。

ブログ00088 「自分が見えない。」 2020年4月9日

 ことわざに、「近くて見えぬは睫(まつげ)」というのがあります。その意味は、人は他人のことについては分かっても、自分自身のことについてはよく分からないものだというものです。まさにB君は、このことわざのまんま生活している児童であり、その言動がしばしばホームでの争いの原因になっています。彼は、いつも何をしている時にも周りを観察しており、誰かが失敗をするなり、忘れ物をするなり、ホームの約束を破ったりするとすかさずに指摘いたします。それがあまりにも露骨でデリカシーに欠けた表現で指摘するので、多くの児童からひんしゅくを買っています。それなのに本人は周りの児童から嫌悪されていることには一向に気付かないのです。彼には、人の行為は見えても人の心は見えていない(察することができない)のです。しかも、自分は誰よりも失敗しているのですが、そのこともまったく意に介していないから不思議です。本来なら、自分には他人を批判する資格はないと思うはずなのですが、自分のことは全然見えていませんから抑止力は働きません。結果、厳しく追い詰める指摘となり、みんなから嫌われるということの繰り返しです。

 今朝も、朝食プレートに盛ってあるご飯やおかずを見ずに周りをキョロキョロしながら食べているので、たくさん食べこぼしてしまいますが全然気づかないでいます。彼の食卓の周りは、いつでも犬の食事後のように食べこぼしが散乱しています。今朝も彼には「食事の際にキョロキョロすると食べこぼすから、自分のご飯だけを見て食べよう。」と勧めましたが、すぐにまた周りを観察し始めます。随分前から指導していますが、一向に身に付きません。それでいて、A君がちょっとこぼすと「こぼしているよ。」と注意します。また、学校に出かける時に、A君のランドセルのかぶせにロックがかかっていないから鞄の中身が全部出てしまうと指摘していましたが、自分のランドセルのかぶせにもロックがかかっていないことには気づかないで学校に行こうとしていました。万事がそんな感じです。

 

 B君のこの生き方は、彼から人を離れさせて自らを孤立させてしまう悪癖ですから、何とか矯正できないものかと日々心を砕いて取り組んでいますが、中々うまくいかず悩まされています。確かに、発達障がいが原因していることは重々承知していますが、私はすべてを障がいのせいにして諦めるのは嫌いです。障がいがあっても(努力で乗り越えられない障がいは別の話です。)、できる限り克服しようと努めることは大切なことだと思います。人は向上心を失ったらダメ人間になってしまいます。それで、B君には、他人のことはいいから、自分のことをちゃんとできるように努力するように指導しています。彼には、「まず他人をジロジロ見るのはやめよう。そして今自分は何をしなければならないかを考えて行動しよう。それでもついつい周りの人を見てしまうなら、その人の悪いところは見ないようにして良いところを見つけよう。もし悪いところが見つかってもそれは話さないように努力しよう。」と話しましたが、何とも難しい高度な要求をしていると自分でも思いました。自分だってこんなことは簡単にできるものではないので偉そうには言えませんので、自戒を込めて彼には「お父さんもできていないから一緒に努力してみよう。」と話しました。B君を指導する一方で、私も彼と共に成長しなければと思うひと時となりました。

 

ブログ00089 「危機管理能力」 2020年4月10日

 一般的に発達障がい児は、先読みして行動することが苦手なため、危険を察知して慎重に対処することができません。常に、行き当たりばったり、出たとこ勝負、猪突猛進で、突発的・衝動的に行動を起こしますので怪我や事故が絶えません。小さな怪我ですむならばよいのですが、いつか大きな事故に遭うのではないかと心配になります。そのため、日頃から危険を想定して行動ができるように、また状況から危険を察知して回避できるようにと教育しているのですが、中々習慣づいていきません。今朝も、階段を走って上がるので、「走ってはいけません。下りてくる人とぶつかったら大怪我しますよ。」と注意しても、その時は「はーい。」と言いますが、下りてくるときにはすでに走っています。「だから、走ったら危ないから歩いて上り下りなさい。走って下りて来ていて前歯を折った子もいましたよ。(私は必ずそうしてはいけない理由を話すようにしています。)」と言うと「そうだった。」と一応答えますが、しばらくするとまた走ってます。

 

 危険なのは階段だけではありません。固い玩具は投げ合うし、ドアの向こうに人がいるのに勢いよく開けるし、長い棒は振り回すし、廊下の曲がり角では止まらないし、熱いものも冷たいものも確かめないでつかもうとするし、尖った物や壊れ物にも無頓着に触るし、交差点は左右確認しないで横断しようとするし、周りを見ないで車から降りて一目散に走り出すし、挙げれば切りがありません。「この子たち、このままじゃいつか死ぬな。」と思ってしまいますので、繰り返し「周りには危険が満ちているから用心深く、気を付けて、慎重に行動するように。」と教えているのです。「痛い目に遭ったら少しは学ぶかな。」とも思いますが、実際は痛い目に遭っても何も学ばないです。痛みが足りなかったからかも知れませんが、大きな痛みとなると死亡か重度の身体障がいになってしまいますから、そうなっては困りますし可哀想です。何とか、小さな痛みで学んでくれないかと思っているのですが、まったく無理なようです。ほとほと困ります。

 

 恐らく、彼らの成長と共に危機管理能力も育っていくのでしょうが、発達障がい児である彼らの成長は恐ろしくゆっくりなのです。当然、見守る側の目を離せない期間も繰り返し教育する忍耐も長くなります。年を取ってきた私には中々厳しい現実になって来ています。今はただ、彼らが危機管理能力を身につけれるまで私が耐えられるように、それまで大きな事故に巻き込まれないようにと願うばかりです。特に心配なA君とB君が、今日も2人で学校に出かけて行きました。毎日私が祈っていることは、彼らが熱心に勉強してくるようにではなく、生きて帰って来てくれるようにということです。今朝も祈って送り出しましたが、夕方デイサービスから元気に帰ってきた2人を見て、心から安堵いたしました。ファミリーホームの毎日とはこういうものです。

ブログ00090 「高額な物」 2020年4月11日

 発達障がい児だからなのかそうとは限らないことなのかは分かりませんが、我が家の子どもたちは例外なく高額な物を選びたがります。私が見る限り、それは気に入った形でもなければ、好きな形でもありません。手に取って見る訳でもなく、機能を確かめる訳でもなく、自分に似合っているかを考える訳でもなく、ただ値札だけを見て一番高額な物を選びます。彼らの判断基準は「高額な物は良い物」というものです。物それ自体を見るのではなく、付けられている値札を見て短絡的に高ければ良い物だと判断して欲しがるのです。それは中学生になっても同じで、E君の帽子をお店に買に行って、ワゴンセールの前を通りがったので「ここにも帽子はあるよ。」といっても(安いセールス品を売っていると知っているので)、見向きもせずに通り過ぎて綺麗にディスプレイされている帽子売り場に直行します。Fさんもスポーチウオッチが欲しいというのでスポーツ店に連れて行き、「部活で使うものだから五千円くらいの物にして。」と言っているのに、持ってきた物は1万円のスポーツウオッチでした。

 

 確かに、物の値段は伊達についている訳ではありませんから、まったく間違っているということではありません。しかし、それだけですべてを判断する姿勢は危ういと思います。この世の中は、「生き馬の目を抜く」世界だからです。簡単に騙されてしまいます。値札何て販売店が自由に売りたい値段を付けている物ですから、本当の値段何て私たちには分かりません。私も5つのファミリーホームの設備管理をしていますので、そういう場面にちょくちょく出くわします。昨年、1つのファミリーホームの外壁塗装をしたのですが、事前に3社に見積をさせたところ、159万円、108万円、80万円と3社とも違った金額を提示して来ました。見積書で使用される塗料や施工内容を確認しましたが、3社とも大差はありませんでした。それなのに、一番安い見積は一番高い工事の半額でした。物の値段というものは、一体どうなっているのかと疑心暗鬼になりました。この世というところは、こういうところです。値段とは、売主が売りたい値段(儲けたい金額)を提示しているのに過ぎません。値段だけで判断すると大きな損をすることになります。問題なのは、値段ではなく物自体の方です。

 

 私としましては、子共たちには物の値段に縛られず、自分の好みの色や形、使いこなせる機能や求める性能、自分の年齢や経済力に合っているか等を総合的に考えて選べる人間になって欲しいと思っています。確かに、大人でも難しい話なのですが、素直で疑うことの知らない彼らにとっては、値段だけで即断するような選び方しかできないと、容易に詐欺に遭って身ぐるみはがされてしまいます。そうならないために大切なのは、物自体で判断しようとする姿勢です。難しい話なのですが、少しでもそうなれるように買い物の際には、必ず「まず値札を見ないでどれが好みか、どれが自分に似合っているか、どの機能が必要か、どれを欲しいと思うかを考えよう。」その後で「どれならば自分の年齢に見合った価格の物かを考えて選ぼう。」と話しています。そうはいっても、分からないように(私にはバレバレですが)値段ばかりを見ようとしますが、少しでも値札に頼らない選択ができるようになってくれればと願っています。