ブログ00101 「フローリング」 2020年4月22日

 子どもたちが6人もいますと、物凄くフローリングが汚れます。「子どもたち、半端ねぇ!」状態です。毎日のようにクイックルワイパーで床掃除をしますが、子どもたちがデイサービスから帰ってきた途端に一日にしてその苦労も水の泡です。「ローマは一日にして成らず。」です。子どものことですから新陳代謝が激しいのは理解できますが、「どんだけ足の裏が汚いのさ。」と床掃除をしながら不満が口をついて出てしまいます。なんか、毎日床掃除ばかりをしているようで虚しくなることもあります。やってもやっても元の木阿弥状態は本当にキツイものです。たまりかねた私は、子どもたちにかかと紐のついたサンダル(スリッパだと危険なので)を履かせて、靴下のままや裸足でフローリングを歩かないように指導しました。ところが、すぐにサンダルを脱いで歩き回るのです。「なんのためのサンダルよ。」と思いつつ、忍耐強く「靴下のままや裸足で歩くとフローリングがすごく汚れるから、サンダルを履くように。」と話しますが、気が付くと靴下のままや裸足で歩いています。以前よりましになったとはいえ、フローリングには彼らの足跡(皮脂汚れ)が残されており、光の加減ではっきり見えて気が滅入ります。これは、もうワックスを分厚くかけるかクッションフロアにするしかないと半ば諦めて、今日もため息交じりに床掃除をしました。

 

 ロシアの文豪ドストエフスキーが記した「死の家の記録」という書物の中で、シベリアに流刑にされた人々に対する拷問について記されていたのを思い出します。2つの桶があって、1つの桶には水がいっぱい入っており、もう1つの桶は空っぽです。囚人は1日中、水をうつしかえすという作業をさせられます。また、砂の入った臼を杵で来る日も来る日もつかせます。そんことを毎日繰り返しさせられていると囚人は、自殺するか、発狂するかのどちらかの道を選ぶそうです。これは、毎日のように床に向き合う日々に発狂しそうになる私には理解できる話です。床掃除の成果だけを見ていると同じことの繰り返しで何も成果があがりません。そこだけを考えていると嫌になってきてしまいますので、もっと大きな視点で生活を見ないといけないなぁと思っています。

 

 日常生活とは同じことの繰り返しであり、そのつまらない繰り返しの中で子どもたちは成長し(気付かないくらい少しずつですが)、大人になっているのだということを忘れないようにしなければと思っています。「木を見て森を見ず。」状態になって、汚れた床ばかりが気になって虚しくなってしまわないように、子どもたちの成長した将来に思いを馳せてつまらない繰り返しに意味を見出すようにしなければと自戒しています。要は心の持ち方次第です。環境は同じでも見方によっては無意味にも感じるし、逆に意味のあるものとも考えられます。人間に与えられた考える能力を最大限に活用し、一見意味のないものに思えるようなことにも何らかの意味を見いだせるようでありたいと思います。すごく難しいことですが、自分の幸せのためにそんな見方のできる人間になりたいものだと、床掃除をしながら思いました。

ブログ00102 「前澤ファンド」 2020年4月23日

 今年の2月に「前澤ファンド」が、「十人の起業家を求む」という企画を行ったことは皆さまの記憶にも新しいと思います。優れた提案(ビジネスとしての独自性や成長性、収益性や貢献性等)をした起業家に10億円の起業資金を提供するというもので、私もチャレンジいたしました。身の程知らずとも思いましたが、現在の児童福祉業界を支えるための事業ができないものかと考えて提案書を作成することにしました。採用されるとは微塵も思ってはいませんでしたが、起業の成功者である前澤氏自らが評価し、提案書に対して意見を聞かせてもらえると言うことで、今後の児童福祉活動の参考になる視点を得れるのではないかとの思いがありました。私も児童福祉に長らく携わっている者として、福祉事業に従事している人々の苦労はよく理解しています。そんな彼らのための支援ビジネスが展開できたら大いに助けられると考えてのことです。

 

 社会的弱者に誠実に向き合った福祉事業は、例外なく事業従事者の志と善意の上に成り立っています。しかし、それは事業従事者に多大なる負担をかける環境であり、そんな個人の善意に支えられた福祉には限界があると感じています。社会的弱者に仕える従事者の誰しもが、経済的・肉体的・精神的に疲弊しており、このままでは福祉業界自体が崩壊しかねないと心を痛めています。国家は、すべての人に福祉が豊かに行き渡ってこそ健全性を保てるのであって、福祉がないがしろにされる国家に未来はあり得ないと私は考えています。その国家の健全性を保っている根幹である福祉事業が、現在崩壊の危険にさらされています。国の行う福祉行政は、現場の実態とは大きくかけ離れた机上の空論であり、まったく実効性・有効性を欠いたものばかりです。末端で社会的弱者に仕える者たちには何ら恩恵が及ばず、誰しもがギリギリの状態で働いています。現場の必要に迅速に応えることのできる民間企業に参入して欲しいところですが、福祉サービス事業に参入する民間企業は非常に少ないと感じます。おそらく、利益の上がらない事業だと思われているからだと推測します。しかし、儲からない福祉を儲かる福祉にし、その利益で社会的弱者に仕える人々の善意を支える支援サービスを充実させていくようにならなければ福祉事業に未来はないと思います。個人の善意に支えられた福祉事業は限界を迎えます。個人の善意による児童福祉を民間ビジネスへと発展させなければ、多くの被虐待児童は救えないと考えての提案でした。

 

 結果は、予想通りの不合格でした。提案者のビジョンや思いや社会貢献度は少し評価されましたが、新規性がなく参入障壁の高いビジネスであること、事業の継続発展性に難があること、ハイリスクローリタンの事業で収益性が乏しいこと、派生ビジネスやグローバルな事業展開に発展しにくい事業であること、上場の可能性なし等、ビジネスとしては成り立たないとの評価でした。当然と思える結果でした。プロの目から見ても福祉を事業にするのは相当難しいようです。金持ちを相手にした福祉ビジネスならば別な話なのですが、社会的弱者はもともとお金は持っていませんので、ビジネスとして成り立たせるためには何か特別な裏技的(不正ではない方法で)な視点と手腕が必要なようですが、今回の提案書の評価を読んでも今の私には見出すことはできませんでした。今後も、私のできる範囲で児童福祉従事者の支援は続けていきたいと思っていますし、少しでも収益を得れるビジネスにすることによって、それで得た収益で児童福祉事業従事者を支援するサービスを展開できたらと願っています。まだまだ私の模索の日々は続くようです。

 

 

ブログ00103 「おやつ」 2020年4月24日

 子どもたちはおやつが大好きで、毎日のようになにがしか少しでも食べたがります。そのため、夕食後少し時間がたってからデザートを出したり、お菓子を出してあげますが、それを非常に楽しみにしています。私も子どもの時には、おやつが大好きでしたから彼らの気持ちはよく理解できます。しかし、主食である夕食を食べないでおやつを食べるということは栄養バランスを欠いた食生活になりますので、夕食を残す人はおやつを食べれないことにしてあります。それに、せっかく心を込めて夕食を作ってくださった人に対して失礼な行為ですから、私たちのホームでは許されないことであることとも日頃から話しています。それでもたまにズルをする児童がいて、食べたくないおかずをポケットの中に入れて、食後にゴミ箱に捨てたりすることもあります。我が家では、基本的に出された物は文句を言わずに食べるルールになっていますので、嫌いなおかずは残したいが残しても明日の朝食に出てくるし、夕食後のおやつもなくなってしまうので、こっそり捨てるという方法を選んでしまうのだと思います。でも、そこは知恵足らずでそのままゴミ箱に捨てるのですぐにバレてしまいます。そして叱られるという結果を招きます。この頃は、バレることが多いのでしなくなりましたが、おやつへの執念が強く以前は何度かありました。

 

 おやつに関しましては、できるだけ彼らの希望に沿ってあげたいと思っていますので、どのような種類のおやつが食べたいのか希望を聞くのですが、まったく意見がまとまりません。6人も児童がいると意見が合うはずもありません。一応彼らに相談させるのですが、それぞれの希望が強く食べたの物を言い合います。放っておくと争いになるのではないかという勢いなので、結局は私か里母が総合的に判断して決めることにしています。おやつ1つで意見がまとまらずに争いに発展しそうになるのを見るたびに、民主化(みんなの希望をもれなく実現する)というのは本当に難しいものだと彼らを見ていて痛感いたします。また、おやつにこれほどの情熱をかけてもめる姿に「この子たちは本当に幸せやなぁ」とも思います。こんなこと平和な世界でしかできないことですから…。おやつごときでそんなに目くじらを立てて争わないで欲しいものですが、この平和な世界がこれからも続くようにと願ってやみません。

 

 もう一つ、おやつに関して我が家にはルールがあります。おやつを食べる時にはテレビを観ないで食べることにしています。それは、テレビを観ながらだとダラダラ食べて虫歯になりやすいですし、消化にも悪いですし、そこらへんにおやつのくずを落として汚します。更には、一緒におやつを食べている子どもたち同士のコミュニケーションもなくなって寂しい時間になります。おやつはみんなで楽しく食べる物ですから、余計な情報を投げ込んできてコミュニケーションを妨害するテレビは邪魔だと思います。それでも、たまにはテレビを観ながら食べたいらしいので、時間にゆとりのある時にはテレビを観ながら食べてもよい日もあります。それでも、テレビにだけ向かっていないで、お互いに話しながら見るようにとは勧めています。発達障がい児は、深く考えずに情報を受け身になって聞いているのが好きで、自分から考えを能動的に発信することが苦手です。それを許していますとどんどん消極的・受動的・傍観的になっていきますので、できる限り自己発信する機会を大切にしてあげたいと考えています。自分の思いや考えを表現できないことで、彼らが不利益を被る人生にならないようにと願っているからです。私が願っていることはただ一つ、彼らの幸せな人生です。

ブログ00104 「助け」 2020年4月25日

 今朝から体調がすぐれず、朝食の準備をして食べさせた後に午後まで休みました。いつもなら里母が私の体調不良の時には補ってくれるのですが、今日は仕事で留守にしているために1人で乗り切らなければなりませんで、昼食と夕食の準備のために休んでおく方が良いと判断したからです。年々歳を重ねてもうすぐ還暦を迎える年齢となりましたので、時たま頭痛と腰痛と倦怠感に悩まされるようになってきていまして、そんな時には無理をしないで子どもたちに遠慮なく話をして助けてもらうことにしています。ホームの子どもたちは、こういう時に本当にいい子で、凄く頼りになります。みんな「分かりました。大丈夫です。ゆっくり休んでください。」と言ってくれるので、その言葉に甘えて休ませてもらいました。

 

 私が朝食の準備をした後、彼ら6人で小学生の面倒を見ながら朝食を食べて片づけてくれました。何とか起きて昼食の準備を始めると、次々に子どもたちがやってきて「何か手伝うことないですか。何をしたらいいですか。」といって手伝ってくれました。「なんて優しいいい子たちなんだ。」と感動いたしました。人が弱っている時に助けてくれる人の存在は、心の深いところから感謝の思いが溢れてきます。改めて、面倒を見ているのは自分ばかりではなく、子どもたちにも面倒を見てもらっているのだと思いました。こうやって支え合う関係こそ、麗しい家庭の姿だと感じました。確かに、日頃から問題行動の多い子どもたちですが、そんなものを忘れさせてくれて、心から「良い子どもたちに恵まれて幸せやなぁ。」と思いました。

 

 十分に休ませてもらった甲斐があって夕方には回復し、夕食の準備をしてクリームシチューを食べました。言うまでもなく、昼食同様に6人とも台所に来て助けてくれました。小学生のA君B君も「僕にできることはないですか。」といって、何か役に立とうとしてくれている姿にも感動しました。「お兄ちゃん、お姉ちゃんの後ろ姿を見てしっかり学んでいるんだなぁ」と思いました。ファミリーホームの利点とされている児童間で与え合う相互作用が功を奏しているようです。ただ、年長者が悪いと悪い影響を受けることになるので諸刃の剣ではあるのですが…。我が家では、今のところは良い影響を与えあっている関係なので感謝です。今日は、家庭において子どもたちが大きな助けになり、養育者も彼らに支えられて生活を営んでいることを忘れてはいけないことを思い出させてくれた良い日となりました。

ブログ00105 「助け2」 2020年4月26日

 法人の仕事でホームを留守にしていた里母が、やっと今晩帰宅します。不要不急の外出自粛の最中ですが、法人の仕事でどうしても出かけなければならず、数日間ホームを留守にしていました。昨日も記しましたが、その間ホームの子どもたちは私を本当によく助けてくれました。特別に何かを指示した訳ではありませんが、日頃の里母の仕事ぶりを見ていたからなのか、それぞれが自分にできることを率先して行って、里母の代わりをしてくれていたのには少なからず驚きました。いざという時には頼りになる子どもたちだと認識を新たにさせられる機会となりました。

 

 里親・ファミリーホームが児童養護施設に比べて優れているところは、里父里母が日常の家庭生活の中でどんな役割を担っているのか、家族のために何をしているのか、家族にとってどんな存在なのかを肌で感じて自然に学ぶことができるところです。児童養護施設を責める訳ではありませんが(彼らには彼らの重要な役割があります)、どんなに設備の整った建物、綺麗な部屋、栄養バランスの取れた食事、様々なイベントへの招待(プロリーグ)、企業からの贅沢なプレゼント、優秀な養育者などが供えられていたとしても、父親母親がいる生活には代えられません。彼らに必要なのは、物質的な物なのではなく、父親母親のいる普通の家庭生活です。そこで、家庭を学び、将来大人になった時に、自分が経験してきた家庭を見本(良い模範だけではなく、反面教師であったとしても)にしながら自らの家庭を築いていくのです。父親母親のいない家庭で育った若者に、どうやって父親や母親をやれというのでしょうか。彼らは、父親や母親の役割を学んでいないのです。そんな状態で良い家庭を築くというのは至難の業です。決してできないとは言いませんが、難しい話だと思います。

 

 児童養護施設出身の親の子どもが、再び施設に預けられているケースが多いというのも、決して理由のないことだとは思いません。家庭的でない児童養護施設で育った子どもたちは、家庭への憧れが人一倍強く、とにかく早く家庭を持ちたがります。しかし、家庭生活とはどういうものなのかを体験していないので、家庭の中で自分が何をすればよいのかが分かりません。そして、子どもが生まれる頃に離婚となり、その子どもがまた施設に預けられてくるという負のスパイラルが続きます。その連鎖を断ち切るために必要なのが、里親・ファミリーホームの存在です。国も被虐待児童が最善の家庭環境で養育されることが、負の連鎖を断ち切る唯一の方法であることを認め、里親委託優先の原則を打ち出したのです。それが誤りではなかったことを、今回の子どもたちの生活ぶりで確認できました。やはり、これからの社会的養護の主流を担うのは、は里親・ファミリーホームだと思わされましたし、いよいよ頑張らなければと鼓舞されました。

 

ブログ00106 「誕プレ」 2020年4月27日

 E君の誕生日が近づいてきており、実親さんから誕生日プレゼントを贈りたいので何が欲しいかを聞いて欲しいとの問い合わせがありました。E君にその旨を伝えて欲しい誕生日プレゼントを考えてから、間違いのないように紙に書いて教えて欲しいと話しました。数日後、彼が紙に書いてきた商品は、「ウォークマンNW-A100シリーズ」というもので、音楽プレイヤーにまったく関心のない私にはどんなものなのかさっぱり分かりませんでした。一応、値段が幾らするのか尋ねましたが、本人が分からないというので(本当は知っているのに知らないふりをしていると思っていましたが)、そのまま実親さんに伝えました。すると、しばらくして実親さんから「ネットでしらべたら最新の機種で35000円もする物で、中古でも25000円くらいするらしく、もっと安い古い機種の物でもよいか尋ねて欲しい。」と言うのです。以前からB君には、ホームには、「実親さんから誕生日プレゼントをもらえない子どもたちがいるので、高価な物は買ってもらわないように配慮して欲しい。高価の品物は、帰宅してから買ってもらいなさい。」と言っているのに、こういう機会に誤魔化して高価な物を手に入れようとするしたたかさがあります。お母さんには、「ホームでは、紛失や盗難や故障等の問題が生じる恐れがあるので、高価な物を持たさないというルールになっています。本人にも伝えますので、もっと安い物を希望させますのでお待ちください。」と伝えました。

 

 本人にも、「以前から他の児童への配慮のために、また紛失や盗難や故障等の事件が起こるのも困るので、高価な物を求めてはいけないルールになっていることは話しましたよね。だから、もっと安い誕生日プレゼントを選びなさい。高価な物は、家に帰ってから買ってもらうといいから。」と伝えました。そして、今朝一枚の紙を持ってきて、「このゲームソフトにします。」というので、実親さんに伝えました。すると先ほどまた連絡があり、「18歳以上の年齢区分マークのあるソフトでした。」という話なので、「それは困ります。他の児童への影響もあるので、それも買わないでください。他の物を考えさせますから。」と言って電話を切りました。「今度はそうきたか。」って感じです。普段ホームでは、PS4ソフトの年齢区分マークはAかBでないといけないと伝えていますが、やはりこういう機会を狙って手に入れようとこずるい手を使ってきます。私もいちいち調べれば良いのですが、忙しいですし面倒くさくもあり、ついやり過ごしてしまうことがります。その間隙をついてくるのです。「そういうところだけは知恵が働くなぁ。」という感じです。

 

 デイサービスから帰ってきたE君に、「18歳以上を対象にしたゲームソフトはだめだよ。他の物を考えなさい。実親さんとのやり取りも大変だから、ホームのルールを守った誕生日プレゼントを選んで、今度を最後にしてよ。」と伝えました。果たして、E君は今度はどんな手を使って、何を求めてくるのでしょうか。明日の朝に明らかになることでしょう。それはさておき、私は実親さんには、自分の子どもの誕生日プレゼントくらい自分で選んで欲しいと願っています。子どものことを考えて、「あれかな。これかな。」と悩みながら買うところに意味があると思っています。たとえそれが子どもにとって願ったものでなかったとしても、子どものことを考えて考えて買った物の方が思いのこもった価値のある誕生日プレゼントになると思います。子どもはそのプレゼントを見て、「何でこのプレゼントを自分に贈ってくれたんだろう。」と親の気持ちを考える機会になりますし(分からなければ一緒に考えるのが里親の務めだと思います。)、そこに込められた愛を見つけることができれば、その子は実親さんをもっと好きになりますし、大切にしたいと思うようになります。そういうプレゼントが彼らには必要だと思います。だから自分で考えて誕生日プレゼントを選んで欲しいのですが、皆さん共通して「欲しい物を聞いてくれ。」と安易な道を選んできます。物で釣った気持ちなんて冷めやすい。親の気持ちで釣った子どもの気持ちこそ永続的で価値があります。そのことに、実親さんには早く気づいていただきたいと思っています。そうでないと、家庭の再構築など難しいと私は考えます。

ブログ00107 「誤解」 2020年4月28日

 今日は、デイサービスでE君が先生に反抗して叱られたとの報告がありました。今度はE君かい。毎日のように誰かが問題を起こして帰ってきます。本当に困ったものです。まぁ、5人も行ってれば何かかにか問題は起こるものですが、たまには何もない日もあって欲しいものだと思ってしまいます。私たちに平和な日々はいつになったら訪れるのでしょうか。さて、今回の事件の概要は次の通りです。デイサービスの先生が机の上に置いてあったデイサービスの送迎表をE君が落としたと思い、送迎表を拾うように言ったのに反抗して拾おうとしなかったことに端を発しました。E君としては、自分が落とした訳でもないのに(本人はそう思っていました。)、一方的に落としたと決めつけて拾うように言われたことにムカついたようで無視しました。その頑なな態度を先生も不快に感じ、厳しく注意しましたがE君は頑として謝らなかったようです。それなのに、無言で送迎車に乗ろうとする態度に更に怒りを覚えて「謝らなければE君を車に乗せない。」と言って拒んだそうです。それで、E君は不本意ながら詫びを入れて帰宅したという次第です。泣いているE君を部屋から連れ出し、2階の集いの部屋で話を聞きました。

 

 余程悔しかったのか、しばらく涙が止まらない状態だったので、「落ち着いて話せるまで待つから、涙が治まったら反抗した理由を聞かせて。」と言って話せる状態にになるまで待ちました。「話せます。」というので、「どうしたん。何がそんなに腹が立ったん?」と聞くと、「僕が落とした訳じゃないのに、僕が落としたと決めつけられたことにムカつきました。そして、謝らなければ送迎車に乗せないと言われ、無理やり謝らされたことが悔しかった。」と答えました。まぁ、人間関係の中でよくある誤解が原因です。先生はE君が落としたと思い、E君は落としていないと思っています。そんな2人の主張はどこまで行っても平行線であり、どちらかが謝らなければ治まらない問題です。それができなければつかみ合いの喧嘩になってしまいます。人間同士の争いは、いつでもお互いの正しさの主張が原因です。お互いに、自分の方こそ正しくて相手が間違っているとの思い込みが、2人の間に争いをもたらします。正しさを主張し続ける人間関係に平和は訪れません。そういった意味で、先生もE君も対応を間違ってしまったように思います。

 

 E君には次のように話しました。「先生もE君も神様ではないから誤りのない真実を知っている訳ではないよね。先生はE君が運航表を落としたと思ったけどそうでなかったかも知れないし、E君は自分が落としたんじゃないと思っているけど知らず知らずのうちに落としてしまっていたかも知れません。人間だから勘違いや思い込みや誤解することもあります。先生だからといって絶対に正しいとは全然思いません。人間だからね。だから、先生はE君が落としたのではないと言ったのなら『君が落としたように思えたけど、君じゃないかも知れない。それでも拾ってもらえるかい。』と言えば良かったし、君は『僕が落としたのではないと思いますけど、拾いますね。』と言えば争わなくて済んだんじゃない。やっていないのにやったと言って謝りなさいと勧めているのではないよ。やっていないならやっていないと言うべきだと思うし、それでも先生が拾って欲しいなら拾いますという気持ちで拾ってあげればいいんです。僕じゃないと言い張って頑なに拾おうとしないから先生も意固地になって拾わせようとしてしまうんだよ。こんな誤解は、君が生きていくこれからの人生においては度々起こることです。学校でも友人関係でもデイサービスでも実親さんとの間でも度々起こります。その度に正しさを主張していたら争いは絶えないよ。特に親元に帰る日が近い今は、うまく争いをかわすことができるようにならないと、引き取りが遅くなってしまいます。今争いを起こして一番損をするのは君自身だと言うことを忘れたはならないよ。児童相談所は先生と争うような児童を親元に返すのは早いのではないかと考えるし、実親さんもまた反抗的な態度で向かってこられたらどうしようと受け入れることを不安になってしまいます。結果、帰宅が遅れると言うことになってしまうよ。それは君も望んでいないでしょう。」と。彼は「分かりました。」と返事をしましたが、本当に分かったかどうかは分かりません。それが証されるのは、今後の生活においてですから注意深く見守りたいと思いますし、同じようなことが怒れば分かるまで同じように指導するつもりでいます。

ブログ00108 「転倒」 2020年4月29日

 今日の夕方、急いで高所の物を取ろうとしてキャスター付きの椅子に乗ったところ、転倒して左手の上腕をを強打してしまいました。そのことが原因で、左指がしびれていてパソコンのキーを叩くことができません。そのため、本日のブログはここまでとさせていただきます。右手だけだと文字入力にすごく時間がかかりますので…。しびれが取れないようでしたら病院に行きますし、治まれば明日状況をお知らせしようと思っています。何か一言いうならば「油断大敵」です。

ブログ00109 「転倒2」 2020年4月30日

 昨日の転倒の件ですが、転倒した際には相当痛かったので「骨折したかも。」と思いましたが、痛みは伴うものの左手は動きましたので骨折ではないと判断し、特に痛みの強い2か所に湿布をに貼って様子を見ることにしました。早めに横になって休んだものの、あまり眠れず朝を迎えましたが、昨日よりかは痛みも和らぎましたし、腕のしびれも治まってきましたので医者に行くのはやめて、無理をしないで体を休み休み動かして軽く仕事をしました。夜にはかなり楽になり、パソコンでブログを打てるようにもなりましたので、大事に至らなくて本当に良かったと安堵しています。

 

 私は日頃より事故に巻き込まれたり、怪我をしたり、病気にならないように慎重に注意して生きていました。それは、私が体調を崩せば児童の生活支援をすることができなくなりますし、施設管理の仕事ができませんし、会計や書類作成等の事務仕事も滞ってしまいます。その上、家内にかける負担も大きくなります。家族の生活を守るべき立場の私が、逆にみんなに迷惑をかけることは非常に辛いことですので、できるだけ危険を避けて生活するように努めていましたのに、今回は急ぐあまりに慌てて愚かな行動を取ってしまいました。ずっと怪我も病気もしてこなかったことで慢心し、油断したことの結果でした。一瞬迷ったのですが、急がねばとの思いが勝り、キャスター付きの椅子に乗ってしまいました。「君子危うきに近寄らず。」です。本当に愚かでした。

 

 思いっきりの転倒でしたが、頭を強打したり、骨折したり、出血したり等の大怪我にならなくて本当に守られたと思いました。事務室での事故でしたので、そこら中にファンヒーター、本棚、スチールケース、ローチェスト、机、健康器具(ほとんど使っていませんが)、掃除機、シュレッダー等の機器や家具が所狭しと置かれていましたので、「よくもまぁ何もないところに落ちたものだ。」と驚きました。何か固い物があってそこに頭をぶつけていたら死んでいたかも知れません。クリスチャンである私から言わせれば「神の憐れみであり、奇跡」でした。転倒による激痛の中でしたが、生きていることに神様に感謝しました。まだまだたくさんの被虐待児童を助けなければなりません。死んでいる場合ではありませんから…。それとともに、油断することなく慎重に行動しなければと自らを戒めました。家族とともに一緒に生きている以上、決して自分だけの体ではないので家族みんなのためにも自分を大切にしなければならないと改めて思いました。

ブログ00110 「正体」 2020年5月1日

 今日の夕方に里母が、「一時保護児童を受け入れたり、お客さんをお泊めするために空けている部屋から音がして怖いんだけど…。」とうったえて来ました。里母は「悪霊が悪さをしているのではないか」と疑っていたようで、私に様子を見て欲しいとのことでした。部屋に行って確認してみると、確かに「ズン、ズン、ズン」とずっと低い音が鳴っています。私が聞いたところでは、規則正しい機械的な音でしたので、物理的な原因がどこかにあるのではないかと考えました。そして、音の発生源を見つけるために、窓を開けて外を確認したり、近くの換気扇を止めたり排水溝を覗いてみたり、物置に音が出る物や動く物がないかを一通り調べてみましたが分かりませんでした。それなら屋根裏で雨漏りをしているのかも知れないので、明日にでも施設管理をお願いしている建設会社に連絡してみようかとも考えましたが、落ち着いてもう少し可能性を考えようと思いました

 

 しばらく、じっくり音を聴いていてもやはり規則正しい機械的な音でしたので、里母の言うような悪霊の仕業とは思えませんで(里母はすぐに悪霊のせいにするところがあります)、何か物理的な原因があるはずだと思いました。規則正しく音を出すもので思い当たるのは時計でしたので、隣の部屋のFさんを呼んできて、壁掛け時計か何か音が出るようなものを壁につけていないか尋ねました。すると「ミニオンズの壁掛け時計をつけています。」と言うので、一時的に取り外してくれるように頼むと音がなくなりました。結局は、隣の部屋の壁掛け時計の秒針の音でした。Fさんの壁掛け時計の秒針の振動音が壁を伝わり、隣の部屋まで聞こえていただけでした。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」でした。里母には、思いもよらない原因に驚き、「さすがに長生きしていると色々と分かるんですねぇ。」と褒めているのかけなしているのか分からないコメントを語っていました。

 

 とにかく、原因が分からない現状というものは不気味なもので、今回のように私たちを不安にさせます。現在世界を震撼させている新型コロナウイルスも、その得体の知れなさが一段と人々に恐怖をもたらしているのと同様です。理性的な生き物である人間にとって、原因や理由が分からないことは強い苦痛を感じさせるものです。ですから、原因が明確でない場合は、何かしら原因らしきもの(自然現象、悪霊や幽霊、バチ、運命、報い等など)をあてがって納得しようとするのだと思います。でも、人生の問題のすべてに納得のいくような原因や理由を見つけることができる訳ではありませんが、私たちクリスチャンは神様という存在によって落としどころを見つけることができます。「すべてのことは神様はご存じだし、すべてのことは神様が最善へと変えてくれるし、決して耐えられないような試練も与えられない。」と思えれば、原因や理由は分からずとも忍耐して待ち望むことができます。この事件から派生的に思わされたことは、「クリスチャンであることはなんと幸いなことか。」ということでした。何ともお幸せな話です。