ブログ00171 「平気で嘘をつく子」 2020年17-18日

 約30年近く里親をやっていますと色んな児童の養育に携わりますが、嘘をつきとおす児童の養育には本当に骨が折れます。反省とか成長とかは事実を素直に求めた上に成り立つものですから、そもそも事実を認めないで嘘をつきとおす児童には有益なことは何も起こりません。どんな見え透いた嘘でも突きとおして切り抜けようとする姿勢を崩さない児童は、結局何の反省も成長も得られずに終わってしまい、同じ失敗を性懲りもなく繰り返します。その消化不良な状態の中、いつかは分かってくれるのではないかと忍耐強くかかわる里親は苦労が絶えません。

 

 先日嘘がばれて(本人は認めていませんが、門限を破った事実に基づいて)3日間の外出禁止とテレビ・ゲーム・パソコンの禁止になっていたFさんが、今日も約束を破りました。我が家では、外出中にトラブルに巻き込まれた際にすぐに対応できるようにGPS付きの携帯を持たせて遊びに行かせています。その際に、携帯の電源を決して切ってはいけないというルール(GPSで所在の確認ができないだけでなく緊急連絡をすることもできまなくなりますので携帯の電源はきらないことになっています。)の下で外出を許可していますが、Fさんは外出の後電源を切ったままどこで何をしていたのか分かりませんが門限まで遊んで帰宅してきました。自分がどこで遊んでいるのかを知られたくなかったからなのだと思いますが、明かなルール違反です。外出時に里母から「携帯の電源を切ったら外出禁止になるから気をつけるように。」と念を押されて「はい、分かりました。」と返事をしていたにもかかわらず、平気で嘘をつき約束を破るのです。

 

 今はまだ新型コロナウイルスの感染が収束していませんので部屋で遊ばずに外で遊ぶようにと話しています。そして、19時まで遊ぶ場合には遊ぶ場所も明確にするルールになっています。彼女は友達とスポーツのできる近くの公園でずっと遊ぶと言っていましたので、携帯の電源が入っていないことに気づいた私は(たまに疑って連絡を入れてみますので)、犯罪やトラブルに巻き込まれていてはなりませんので(おそらくそうではなくて故意に電源を切ってどこかに遊びに行ったのだと思いましたが)、その公園まで様子を見に行きましたがやはり居ませんでした。結局のところは帰宅を待つしかありませんので、帰宅してきた彼女に私が公園に探しに行ったことは内緒にして何をしていたのかを尋ねました。平気で嘘をつくFさんは、面っと自然に嘘でまかしを流ちょうに話します。「これじゃぁ、実家に引き取られてもまた親子関係は壊れるだろうなぁ。」と思いながら、本当に呆れてしまいました。毎度のこととは言え、よくもしゃあしゃあと嘘がつけるものだとガッカリもしました。まだどこかで正直者になってくれるのではないかとの期待を抱いているからのでしょうが、毎回その思いは打ち砕かれてしまいます。本当に残念です。事実を認めない姿勢を貫く彼女には、いつまでたっても進歩も発展も成長も期待できません。そんな中で私たち里親はどのようにしてモチベーションを保てば良いのでしょうか。深く考えさせられます。

ブログ00172 「不仲」 2020年7月19-20日

 FさんとB君の関係があまり良くないという話は以前にいたしました。様々な手段を講じて関係の改善を試みてきましたが、ことごとくうまくいかないまま現在に至っています。我が家における今一番の悩みは、この2人の関係問題です。Fさんには中学生らしい大人の対応をするようにと勧めていますが、私たち養育者のいないところでB君に対して露骨で低次元のいじめを行っているようです。泣きじゃくるB君からの訴えがあって問いただしても、「そんなことは言っていませんし、してもいません。」ときっぱりと答えます。Fさんは、平気で嘘がつけれる子ですし、どのように明確な証拠を突き付けられてもその嘘をつき通す子です。彼女は、「B君が聞き間違えたか、勘違いしているだけだ。」と言い張り、自分には何の落ち度もないことを強調します。しかし、B君が大声で泣いている姿を見ると何もなかったとはとても思えません。しかし、現場を見ていない私たちは推測で決めつけることはできませんので他の児童に尋ねるのですが、他の児童がいないところでやるので客観的な証言を得ることもできません。典型的ないじめっ子の手口です。このまま放置して置くことはできませんので、Fさんを別室に呼び指導することにいたしました。

 

 私はFさんに対し、「君がB君を嫌っているのは知っています。誰だって馬が合わない人というのはいるものであり、ある意味仕方がない現実だとは思っています。でも、中学3年生にもなる子が発達障害を持っている小学生をいじめるようなことは決して許される行為ではありません。見せかけの家族であろうとも、ひとつ屋根の下で生活している者たちが争っていることは家族全員を不幸にします。ですから、細心の注意を払ってB君とかかわってもらいたいと思います。B君は君が自分を嫌っていることを知っています。そのため、君がB君に対して発する言葉すべてを非難されていると受け止めがちになるし、自分を悪く言っていると勘違いすることもあります。だから、しばらくB君に対しては何の言葉も発しないようにしてくれないか。何も話さなければ聞き間違えることも誤解されることもないからね。第一、B君のことを嫌っている君が発する言葉でB君が幸せになることはありませんから、お互いのためにあえて話さない選択をして欲しい。特に中学生3年生の君の方がB君との距離を保ち、大人の対応をすることによって争いを回避してくれるように工夫してくれないかい。実親さん家庭への引き取りが間近に迫ってきているのだから、それまで君の方が努力して欲しいと思います。」と話しました。そして「もし、君が私との約束を守らず、B君の人格を否定するような言葉(キモイ、ウザイ、死ね、失せろ、馬鹿等)を発していたと他の児童からの証言があった場合には、担当のケースワーカーに連絡して措置変更も検討に入れた話し合いをすることにします。いいですか。」と念を押しておきました。Fさんも「分かりました。」との返答をもらったのでしばらくこのルールで生活を続けてみようと思っています。

 

 里親にとって里子の措置変更を持ち出すのは最終手段と言えます。本来であるならば切るべきではないカードなのですが、B君の辛そうな姿を見ているとFさんに強い抑止力をかけなければB君を守れないと判断したからです。いじめっ子ならではの巧妙さを持っていじめているので発覚するのに時間がかかります。B君の人格が破壊されてからでは遅いので、厳しい姿勢で臨む決心をしました。FさんにはFさんの事情や理由があるのだとは思いますので、里母が親身になって話を聞く努力をしています。その中で何らかの解決の糸口を見いだせるかもしれませんが、それまでの間もB君も守らなければなりませんし、他の児童の気持ちも守らなければなりません。他の児童にもFさんのことを率直に尋ねましたが、1人を除いて4人の児童がFさんに出て行って欲しいとまで言い始めました。Fさんの態度が家族みんなの生活に嫌な思いを持ち込んでいることが明確である以上、やむ負えない対応だと思っています。願わくば、伝家の宝刀を抜かずに収まることを心より願ってやみません。

ブログ00173 「進路」 2020年7月21-22日

 中学2年になると進路についてある程度決めていかなければならなくなります。そこで難しくなるのが実親さんと里子と里親3者の意見を調整して、進路を決定していく作業です。里親は里子の生活を身近で見ておりますので、その子の学力や社交性、学校に臨む姿勢や校風に対する向き不向きが分かります。そのため、将来の進路に関しても現実的なところが分かりますので、ある程度進路の選択肢も絞れます。しかし、実親さんは離れて生活している分、現実が見えていなかったり、本人の実力を度外視した進路を提案したり、本人の願望を鵜呑みにして無謀なチャレンジをさせたりします。高校への進学は、ある程度将来の方向性を決める大切な選択になりますので、里子の将来を想定しながらの慎重な決定が必要です。その選択を失敗すると後々の人生に大きな障害となることが多いからです。私はそういった失敗をたくさん見てきましたので、現実的な路線で安全な選択を望むようになってしまい、今ではすっかり冒険できなくなってしまいました。

 

 最終的な決断は里子と実親さんでなされるものであり、里親が口出しして混乱させるようなことがあってはならないと思っていますので、何とか躓きの少ないと思われる選択をして欲しいと願っています。火曜日に実親さんと面談したE君が、ある高校のパンフレットを持って帰ってきました。その高校には、以前に我が家から通っていた児童がおり、授業料はべらぼうに高い上に授業の内容はお粗末だし、就職先の世話も適当で生徒と親自身で探さなければなりませんし、挙句の果てにはいじめにあっても対応がなされず結局その高校を3年生で休学いたしました。それでも何とか高校だけは卒業させてあげたかったので、私立の高校に高い授業料を払って転校という形で受け入れてもらいましたが、残念ながら就職もできずに自宅に引き取られていきました。このことは、この児童にとって非常に大きなダメージとなりました。決してその子と同じになると決めつけている訳ではありませんが、かなり自分をしっかりと持って対応できる児童でないと高校生活を続けることも就職することも難しいと思います。

 

 実親さんですから、子どもの可能性を信じてチャレンジさせてあげたい気持ちは分かりますが、その子が躓いて人生に自信を失ってしまうようなことにでもなるとこれからの人生を生きることに苦労します。人は「何度でも人生をやり直せる。」と安易に語りますが、やり直すことは本当に大きなエネルギーが必要なことであり、そのエネルギーのない人は躓いた状態で身動きのとれない状態を続けることになります。私は人生において失敗は避けられないにしても、できる限り避けて生きれる人生が幸いだと思っています。失敗や躓きにめげない強靭な精神力を持ち合わせている人は何度でもやり直せばよいと思いますが、人間はそんなに強い人ばかりではないからです。私は、たくさんの児童の養育に携わって来た者として、冒険はちょっとで我慢して欲しいと思ってしまいます。おそらく、苦しむ児童の姿を見たくないからなのでしょう。自分の人生は結構果敢に挑戦していますが、児童の人生に関してはすっかり臆病者になってしまいました。

ブログ00174 「好意」 2020年7月23-24日

 昨日、今日と甘くて美味しいスイカを子どもたちと一緒にいただきました。これは、我が家の子どもたちのことをいつも気にかけてくださっているKさんからの贈り物でした。子どもたちに美味しいスイカを食べさせてあげたいということで、わざわざ浦臼までスイカを買いに行ってくれたそうです。その立派なスイカを見て昔のことを思い出しました。私の祖母は生前農家を営んでおり、様々な野菜や果物を作っていました。スイカもその一つであり、夏に田舎に遊びに行った時に、山の湧き水で冷やされた大きなスイカを食べさせてもらったことを今でも鮮明に思い出します。そのスイカの甘かったこと。今も忘れることができないその甘さが災いして、今では市販のスイカを購入することはほとんどありません。素人の私には、見た目でスイカの良し悪しは判断ができず、何度も市販のスイカを買っては後悔しており、その経験が私をためらわせているのでしょう。

 

 スイカに強いノスタルジーを感じる私にとっては、幼少期に味わった祖母のスイカの味が忘れられず、スイカを前にすると一種の抵抗を感じてしまうのです。そのため、どうしても美味しいスイカであることを疑ってしまうのです。今回も美味しいスイカなんだろうかと疑いながらも恐る恐る包丁を入れて2つに割ると、真っ赤に熟した実と甘い香りが漂って内心ホッとしました。何か昔の大切な思い出を守られたような安堵を感じました。スカイ一つでハラハラするなんて何て小さな人間なんだろうと思いますが、それほど私にとっては大切な思い出だったと言うことなのでしょう。兎に角、美味しいスイカで良かったです。

 

 このように、多くの人々の善意に支えられて我が家の子どもたちは成長しています。色々な方々の心づくしの度に、子どもたちには人の優しさ、思いやり、愛を忘れてはならないことを教えています。人は決して一人で生きている訳ではありません。多くの方々の愛に支えられて生きているのです。それを忘れてあたかも自分の力だけで生きていると勘違いするような傲慢な人間になってはならないと思います。ですから、私は事あるごとに子どもたちには周りの人々の優しさ、思いやり、愛を忘れてはいけないことを繰り返し強調いたします。人は優しくしてもらった分だけ人に優しくなれると私は思っているからです。この世の中では、「苦労した分人に優しくなれる。」と言いますが、確かにそうなれる人もいるでしょうが、多くはこの世や周囲の人々を恨むようになり、優しさも思いやりも愛も失ってしまいます。人はしてもらったようにしか人に対してはできないからです。それ故に、子どもたちが多くの人々の善意に触れることは(本人に自覚させる必要がありますが)、彼らが善意に満ちた人に成長するためには不可欠な体験であると思っています。私は思います。この子たちのことを思ってくださる方々すべての人たちが、この子たちを良い子に育ててくれているのだと。本当に感謝です。

 

 

ブログ00175 「面倒」 2020年7月25-26日

 2階にいるD君に用事があったので、1階にいたB君に呼んできてくれるように頼みました。するとしばらくしてB君が戻ってきて「D君を呼びましたが『面倒くさいなぁ』と言って降りてきません。」と伝えてくれました。私は「面倒くさいとは何事か!」と思いまして、呼びに行こうと立ち上がるとD君が降りてきました。それでD君に尋ねました。「面倒くさいとはどういうこと。用事があるから呼んでいるのであって、何の用事もなく呼んでいる訳ではありませんよ。」 するとD君は「洗濯物を干していたので…。」と言うものですから、「それなら、『今洗濯物を干しているので後でもいいですか。急ぎの用事ならばすぐに行きますけど。』とB君に言付けすれば良かったんじゃない。ただ面倒くさいとしか言わなかったら呼んだ人がどう思うと思いますか。」と尋ねると「嫌な思いをすると思います。」と答えました。「でしょう。だからちゃんと説明するようにしよう。それに、面倒だというのは理由になりませんよ。お父さんだって面倒だけど君たちのために仕事をし、食事の準備をし、掃除や片付けをし、学校行事に参加し、病院に連れて行き、必要な買い物をし、公園に連れて行ったりしているんだよ。お父さんがそれら全部を面倒くさいと言ってやらなくてもいいのかい。誰かのために何かをするというのは面倒なことなんだよ。でもそれをするのが家族だし、助け合って生きるっていうことじゃないのかい。」と話すと「分かりました。すいませんでした。」というのでD君への話は終わりました。

 

 今度はB君です。B君に向かって「D君が面倒くさいと行った時、『そんなこと言わないで行った方がいいよ。もし今行けないんだったらその理由を伝えるよ。』と勧めてあげたらよかったんじゃないのかい。何で『面倒くさいと言って降りてきません』とお父さんに伝えたのか。そんなことを言ったらD君が注意されることになることぐらい分るでしょう。家族ならそこはかばってあげるべきじゃないのか。何の手助けもしないで事実を伝えることだけが正しい訳ではありませんよ。相手が不利にならないように助言したり、勧めたり、手助けをしてあげて伝えてもいい状態にしてから事実を伝えるのが優しさというものですよ。家族としての配慮が足りなかったんじゃない。」と話しました。少し難しい話かとも思いましたが、分かろうが分からなかろうが、こういった機会に話していくうちに理解してくれるのではないかと考えて話をしました。一応B君は「分かりました。そうします。」と答えてくれましたが、おそらく分かってはいないでしょう。そういえば話が終わるので、我が家で生活している中で自然と身に着いた処世術としての返答だったと思いますが、今のところはそれでもよいのではないか、そのうち理解してくれるのではないかと信じたい気持ちでいます。

 

 中学生になったD君は、今少しずつ反抗期に入ってきているようで、学校で覚えてきた乱暴な言葉を使ってみたりしています。でも、たとえ思春期であろうが反抗期であろうが使ってはいけない言葉は使ってはいけないのであり、私は決して見過ごしにはいたしません。その子が「分かりました。」というまで何時間でも何度でも話をします。決して後回しにせず逃げないで向き合って話します。無駄に物分かりのいい親父にはなりません。今までもずっとそうしてきました。そのために長い話し合いになることもありますので、見かねた年長者の児童が通りすがりを装って「『分かりました。すいませんでした。』と言ったらすぐ終わるぜ。」と小声で助言して行くこともありました。親にとって大切なことは、逃げ腰にならないで子どもと向き合うことだと思っています。何をどう話していいか分からなくても、兎に角向き合って話を始めることが大切だと思います。子どものために時間を使うことが愛の証そのものだと思うからです。その愛は、きっと頑なな子どもの心も融かしてくれると私は信じているのです。

ブログ00176 「顔つき」 2020年7月27-31日

 「目は口ほどに物を言う。」ということわざの通り、言葉に表さなくても不満な気持ちは面に表れるもので、特にFさんに関しましては顕著です。家庭とは集団生活であり、何でもかんでも本人の思い通りには行きません。そこを譲り合って受け入れ合って許し合って生活するのが家族というものですが、いちいち不満を態度で表してしまいます。おそらく、本人はそれに気づいていないのかも知れませんが、その表情は相手を不愉快にしてしまいます。私たち養育者の注意や忠告に関しましても、決して言葉で反抗したり口答えしたりすることなく「分かりました。」とは言いますが、不満な気持ちが顔にありありと表れています。「本当にこの子は損をしているなぁ。」と思うのです。折角悪い言葉を我慢して飲み込むことができるのに、態度で表してしまうと元も子もなくなってしまいます。何とかならないものかと思っています。

 

 Fさんが我が家に来て2年になろうとしています。この2年間でFさんは大きく成長しました。基本的な生活習慣を身に着け、たまにホームのルールを破ってしまうことはあっても凡そは守っていますし、家庭の当番もこなしていますし、学校や部活を休むことなく、受験生らしく毎日勉強もこなしています。言葉であからさまに反抗することもありませんし、物にあたったり暴力を振るうこともありません。問題なのはたった1点で、自分の希望通りにならない時に不満を露骨に顔に表してしまうことです。もう少しで家庭引き取りという最終段階を迎えているのにもかかわらず、これを一時帰宅の際に実親さんに対してしてしまったら家庭引き取りの話も流れてしまうのではないかと心配になります。本人にはくれぐれも表情に表さないようにと忠告していますが、果たして守られるやら。実親さんの元に帰りたいという思いが強ければきっとできるだとうと思います。その思いの強さにかけるしかないと思っています。

 

 家族がひとつ屋根の下で共同生活をする集団ならば、譲り合い受け入れ合い許し合って生活できなければ家庭崩壊することは避けられません。良い家庭は一人一人の努力で築き上げられるものであり、何の努力も我慢もなくして自然に出来上がるものではありません。自分の家庭を批判する人に共通している特徴は、自らは何の努力も工夫も我慢もせずに、相手にばかりすべてを要求しているところです。幸せな家庭を望むなら、まず自らが良い家庭を築くための努力を始めなければならないと思うのです。誰かではなくて自分です。家庭が崩壊している理由を自らの内に求め、家庭のために何かを始めるところから変化は始まるのだと思いたいものです。私が好きな内村鑑三の言葉に「個人が変わりて家庭が変わり、家庭が代わりて社会が変わり、社会が変わりて日本が変わり、日本が変わりて世界が変わる。」というのがありますが、いつの時代でもすべてを変える始まりは個人にある事を忘れないでいたいものです。

ブログ00177 「クズ」 2020年8月1-2日

 何があったのかは分かりませんが、A君がD君に対して大きな声で「クズ!」と言っていました。その言葉にカチンときた私は、すかさず「人をクズ呼ばわりしてはいけません。その言葉は人を馬鹿にする酷い言葉であり、言われた人に辛い思いをさせてしまいます。それは言葉の暴力でありすごく心を深く傷つけますから二度と口に出してはいけません。」と厳しく注意しました。しかし、我が家では誰も使っていない言葉ですし、私も一度も使ったことのない言葉ですから、一体どこでそんな言葉を覚えてきたのだろうかと思い、A君に「誰からそんな酷い言葉を学んできたのか。」と尋ねると「学校です。」と答えました。学校は勉強も教えてくれますが、悪い言葉や習慣も一杯学んできてしまいます。おそらく、良い事よりも悪いことの方が圧倒的に多いと感じます。学校に行かせないで家庭学習をする家庭も増えてきているようですが、分かるような気がします。家庭で矯正している倫理は、殆どが学校で学んできて悪い言葉や習慣ですから…。

 

 A君に「ところで、クズの意味が分かって使っているのかい。」と尋ねると「分かりません。」と答えましたので「それじゃぁ、意味も分かんないで使っていたのかい。」と更に尋ねると「そうです。」と言いました。彼曰く、「何となくこんな時に使うんだろうなぁと思ってい使っていた。」とのことでした。そこで、クズの説明をする必要があるなと思って話をしました。「クズとはね、いい部分をとった残りかすや役に立たないものという意味で使われる言葉だよ。つまり、使い物にならない役に立たない必要のないいらない存在ということです。それを言われると人は凄く嫌な思いをするんです。深く人を傷つける、侮辱する言葉なんだよ。だから人に向かって使ってはいけないんです。」と話すとA君は「そうなんだ。もう使いません。」と言ってくれました。本当かなぁと疑ってはいますが、彼の成長に期待したいと思います。

 

 現代のように情報過多の時代に生きている児童にとっても、情報の整理や取捨選択の能力は必要だと思わされています。あまりにもたくさんの悪い言葉や習慣や情報が飛び交っているために、無防備に生活していると知らず知らずのうちに吸収してしまい、自らの人生を毒づかせてしまうことになります。これからの時代を生きて行く私たちにとっては、大人も子どもも「聞き流す」技術が必要になってくるのかも知れません。自ら望んでいなくてもどんどん聞こえてきますから、あえてそれを心を留めずに聞き流して行くことが自分を清く保つことにつながると思います。難しいことではありますが、あえて聞かない選択、聞き流せる柔軟性が必要な時代に生きていると改めて思わされました。

ブログ00178 「懇談」 2020年8月3-4日

 E君の二者懇談がありました。学校での生活ぶりを詳しく聞くことができ、彼の別の一面を知る機会になり有益でした。我が家でのE君の普段の生活は非常に物静かでおとなしく、大声で笑ったりふざけたりしている姿をほとんど見ることはありません。私たち里親に対しても非常に従順であり、口答えをしたり、あからさまに反抗的な態度を取ることもありません。少し前までは、思い通りに進まなければ不満のやり場に困って机や壁に当たったりもしていましたが、現在はそのようなこともほとんどなくなりました。私的には、「随分と大人になったなぁ。」という印象でしたが、学校では随分と子どもらしい悪ふざけをして楽しんでいるようで、少なからず驚きでもありました。でも、それが中学生ですから別に特異なことではありませんから全然構いませんが、一方で我が家では随分と我慢しているのではないかとも思いました。

 

 長年里親をやっていますと、里親からの生活支援を遠慮なく当然のように求めて過剰に要求するタイプと里親との関係が壊れることを恐れて極端に遠慮l深くおとなしくなるタイプとに分かれると感じています。前者は自分の立場をわきまえず、限度を超えて自らの要求を押し付けてきて里親を悩ませますし、後者は自分の置かれている立場を理解し、遠慮し過ぎて当然の要求すらせずに自ら飲み込んで我慢して里親を心配させます。E君は典型的な後者タイプの児童であり、こちらから常にどうして欲しいかを尋ねなければ何も言ってきません。具合が悪くても多少のことなら我慢までしてしまいます。そういった意味で里親は常に気にかける苦労を負うことになります。このタイプは、比較的年齢が高くして委託される児童に多く、自らを分析できる賢い児童に多いと感じます。一方、幼くして委託される児童は殆どが前者タイプであり、知恵が未発達のためまったくの遠慮がなく過剰な要求を限りなく求めてきます。これはこれで、里親の決意と忍耐が試される児童といえます。どちらにしても里親はただではすまされません。

 

 じゃぁ、どちらが里親との信頼関係を築いている児童なのかというとどちらともいえません。遠慮なく要求する児童も受け止めてもらえるという信頼があるから求めるのであり、遠慮して要求しない児童も築いた信頼関係が壊れることを恐れて求められないのですから、どちらも信頼関係がある程度成立しているからこそのことです。人の心は非常に複雑であり、画一的に表れた行動で心を判別できるような単純なものではありません。ただ、どちらにしても里親は悩まされますし、個別対応が要求されることになります。正直言って「本当に面倒くさい。中間はいないのか。」と思うことも度々です。でも、これが個性というものでしょうから、それを尊重した養育に心掛けるのが里親の務めですから不平を言うべきではないのかも知れませんが、たまに「疲れるわぁ。」と思うこともあります。人間ですから…。私は決して聖人君主ではありませんから、嫌になることも疲れることも腹が立つこともイラつくこともあります。それでも、里子たちの幸福を願う気持ちには偽りはありませんから、その思いの確認をして我を取り戻す毎日を送っています。約30年も里親をやっていますと、この頃はそれでいいんだと自分を受け入れることもできています。だから、今でも懲りずに里親を続けられているのです。