ブログ00191 「シルバーウイーク」 2020年9月20-24日

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のために外出を控えて来ましたが、シルバーウイークを迎えて久しぶりのまとまった連休でもありましたので、子どもたちを連れて少し遠出をしました。あまり人混みの少ないだろうと予想される場所にしようと思い、千歳水族館と支笏湖に行くことにしました。しかしながら、人の考えることは同じでありまして、思いの外たくさんの人々が訪れていました。消毒とソーシャルディスタンスを意識しながらの落ち着かない観覧となりましたが、地味な魚の展示の多い千歳水族館は子ども受けはせず、「鮭ばっかりや!」と連呼するので慌ただしく移動し、売店も小さくて、しかも子どもの小遣いで買えるような物もなく、「何にも買えない!」と大声でしゃべる始末。居ずらくなって早々に水族館から退散しました。何で子どもは心の声が駄々洩れするのでしょうか。それが子どもだと言われればそうなのですが、一緒にいるこちらの身にもなって欲しいものです。恥ずかしくて仕方ない。早く成長して心の声を心の中だけで治めるようになって欲しいとつくづく思いました。

 

 そのあと、サーモンファクトリーに行きましたが、ここも混んでいて私たちの居場所はありませんでした。子どもたちはガチャガチャにはまって色々買っていましたが、思っていたカプセルは出てこずでガッカリしていました。大概ガチャガチャとはそういうものであって期待通りの物など出てくるものではありません。しかし、彼らは欲しいカプセルが必ず出てくると信じ切っているのです。期待が大きい分落胆も大きく、皆ショボンとしています。「ガチャガチャは本当に罪作りやなぁ」と改めて思いました。「あれは、資金が潤沢にあって目当てのカプセルが出るまでやり続けることができる金持ちの遊びだから、願っている物は出てこないことの方が多いからね。」と日頃から子どもたちには話しているのですが、ちっとも聞いてくれません。子どもの期待をそそるガチャガチャの呪縛からは、彼らはなかなか抜け出せそうもありません。

 

 サーモンファクトリーを後にし、次の目的地である支笏湖に向かいました。車の中で子どもたちはガチャガチャの無念を晴らすためにお菓子をバクバク食べていました。そんなことで憂さを晴らせるのなら結構なことなので、なすがままに任せました。支笏湖に着く頃には気分転換もできたようでして、素晴らしい眺めを堪能しました。と言いましても子どもたちはカラスやアイスクリームの方が気になっているようでした。まだまだ景色を楽しむという段階までは至っていないようですので、彼らの関心事に合わせてソフトクリーム売り場に行き、好みのソフトクリームを選んでお店の中で食べました。ついでにサーモンフライとチーズいももちも食べて、すっかりグルメ旅になってしまったなぁと思いました。でも、まぁ子どもたちが楽しんでいるのでこれで良いことにいたしましょう。支笏湖にはほとんど興味を示しませんでしたので、車に乗って帰途につきました。合計で180キロばかりの旅となり、そこそこ疲れましたので帰宅後3時から皆で昼寝もしました。こんな旅も、彼らにとってはまた一つの思い出になることでしょう。

ブログ00192 「ずるい」 2020年9月25-28日

 長年児童の養育に携わっていると、子どもたちのずるさを感じることが多々あります。先日もこんなことがありました。Fさんが「修学旅行に行くので小遣いが欲しい。」と言って来ました。本来そういうことは、学校からの文書で知らされるものですが、必ずと言っていいほど文書は見せないで少し多めの出金を依頼して来ます。それは、Fさんに限らず、今までホームにいた児童皆がするのですが、その度に「文書を見せない限り出しませんよ。」と言って応じません。するとしばらくして「ありました。」と言って文書を持ってくるのですが、大概金額が違っています。そんな手口には慣れていますので、あやふやな情報でお金は出さないようにしています。そんな成功体験は、また新たな嘘を誘発しますので、油断することなく対応するようにと注意しています。「生き馬の目を抜く」子どもたちとはしっかりと向き合う大人が必要だと私は考えています。

 

 結局、文書通りのお小遣い(持参してよい上限の金額)を渡すことにしましたが、今までの経験上、全部を使わないで修学旅行から帰って来てから欲しい物を買おうとする児童がいます。極端な場合には、お土産を1つだけ買って後は使ったふりをして帰ってくる児童もいました。そのため、お小遣いを入れた封筒に購入した物の領収書(領収書の出ない買い物は何を買ったかを書いた紙)を入れておくように、更に領収書と残金を足して渡したお金より少なかった場合は自分のお小遣いで補うようにと話しました。すると、見る見るうちに表情がこわばり、不満をあらわにいたしました。それを見て「あぁ、この子も修学旅行のお小遣いを残してきて何か自分の欲しい物を買おうと企んでいたなぁ。」と思いました。この児童は心が顔に表れやすいのですぐに分かります。私としましては、修学旅行中に何を買っても構いませんが一生に一度の修学旅行ですので、友だちと楽しい思い出を作るために思い切り楽しんで来て欲しいと考えています。修学旅行で使って欲しくて出したお金ですから、それを節約して帰って来てから別の物を買おうとするのは本末転倒です。それは結局は悔いとなって残りますから、修学旅行のために出したお金は修学旅行で使って欲しいと考えています。

 

 子どもたちの思いは刹那的ですので、良し悪しを考えないで近視眼的に物事を判断してしまいます。それを「若気の至り」や経験と言って見過ごすこともできますが、私はそれをズルをして行おうとしているところに問題を感じます。ズルはズルですから、やはり看過はできないと思います。見過ごすと更に大きなズルになって表れてきます。悪いことに関する成功体験は、更にスケールアップした悪いズルを生み出してしまいます。ズルはいつかはバレるものであり、信用を失うという大きな損失を被ることになることを学び、それよりかは、正直に生きることを選択できる児童になって欲しいと思っています。理想主義者らしい愚かな考えだと感じられる方もいると思いますが、私はやはり理想は失いたくないと思うのです。理想を追うことは忍耐を要することですので、今はただ忍耐を求めて日々を生きようとしています。

ブログ00193 「自家中毒」 2020年9月29日-10月2日

 B君とFさんが馬が合わなくて関係が難しいという話は何度かいたしました。共に生活している私としましても、決して見過ごしにできる問題ではありませんが、びっちり一緒にいる訳ではないので関係を取り持てないこともしばしばです。そのため、私のいないところで陰湿な対立が勃発しているようです。他の児童から聞くところによりますとですが…。そんな日々の中、Fさんが修学旅行に出かけて行きましたので、B君にとっては束の間の平穏を得たようで、随分とはしゃいだ生活をしていました。「本当にうるさいなぁ。」と正直思いつつも、幸せなのはいいことなのでそれはそれで我慢していました。

 

 ところが、Fさんが修学旅行から帰って来た日になると体調を崩し、熱もあったので新型コロナウイルスの感染の可能性も考えられましたので、児童全員学校とデイサービスを休むことにしまった。朝一番に小児科に連れて行き、たくさんの検査を受けた結果、尿に血が混じっているのが心配だということで、一日しっかりと水分と休息を取ってもう一度次の日に検査に来るようにと言われました。それと重度の「自家中毒」になっているとのことでした。翌日もう一度小児科に尿検査に行って診察を受けましたが、血尿は収まっておらず、腎臓に問題があるかも知れないので、大きな病院で精密検査を受けるようにと勧められました。大きな病院で一日がかりの検査の結果、どこも悪くないので原因は分からないとのことで、1か月後に採尿して検査を受けるようにと言われました。B君に容態を聞くとすっかり良くなったと言うことですし、熱もないようですので、明日から学校に行く許可もお医者さんから出ました。一安心ですが、私としては重度の「自家中毒」という診断の方が気になりました。しかも、Fさんが帰ってきた日に発症するということが気になりました。

 

 帰宅後、里母がじっくりとB君の話を聞いたところ、やはりFさんの存在に深く悩み傷ついていることを正直に話してくれたそうです。そして帰ってきた後の生活を考えると苦しくなってしまったそうです。元々は非常に仲のいい2人でしたのに、嫌いになってしまうととことん嫌いになるという恋人的な関係になってしまっているようで、なかなか修復は難しいと感じていました。でも、体調を崩すまでに悩み苦しんでいるというようなことが家族間であってはならないと思いますので、Fさんには個人的に「B君が体調を崩すほどに追い詰めるのは良くないと思うよ。好きになれとまではいわないけど、もう少し大人になって自然に振舞ってくれないかい。自分のせいでB君が病気になるまでのことは望んでいないでしょう。それに、今回のように熱が出ると新型コロナウイルス感染が疑われて部屋に隔離されることになり、学校にも遊びにもいけなくて自分も損をすることになります。自分の行為で自分が損失を被ることは避けた方がいいんじゃない。だから、自分なりに努力してみてくれないかい。」と話しまた。「分かりました。」と言ってくれましたので、Fさんも少しは手加減してくれるものと思います。ただ、関係が改善されることは期待薄なので、辛い思いをしているB君には、私たち里親が気を付けて、話を聞いたり、共感したり、励ましたり、日頃から少し優しくしてあげるなどの代償行為を大切にしながら支えて行こうと話しています。Fさんの家庭引き取りの話が間近に迫っている中、それまではしっかりと守りたいと考えています。

ブログ00194 「通院」 2020年10月3-7日

 A君が我が家に来て早6年、ADHDの対応に追われる日々でした。やっとこの頃は落ち着いてきており、無断で家を飛び出して行ったり、急に道路に飛び出したり、お友達を殴ったり、暴れたり、家中を走り回ったり、落ち着きなく動き続けるようなことも少なくなって参りました。多動がすっかり収まった訳ではありませんが、かなり自分をコントロールできるようになってきており、彼の成長ぶりを感じられます。毎日のように学校から16時頃に電話がかかってくるという恐怖の日々もなくなり(今もたまにはありますが)、比較的平穏な日々を過ごせることもつくづく感謝だと感じられるようになりました。発達障がい児は、健常児と比べて成長に時間がかかりますので、養育者には諦めずに待ち望む忍耐力が求められますが、いつかは報われるものだと改めて確認できました。我慢して耐えてきて本当に良かったと思います。今、発達障がい児童の養育に苦労されている皆さん、その忍耐が報われる日が必ず訪れます。諦めないで児童の成長に期待して養育に携わっていただきたいと思います。

 

 A君の委託を受けて以来、ずっと児童精神科にも通い続けており、先日も長い道のりを病院に通いました。車で片道1時間程かかるため半日作業になってしまいます。改めて、「よくもまぁ、長年通ったものだ。」と思いました。「できれば、もっと身近に児童精神科クリニックがれば良いのに…。」といつも思いながら通いました。最初は、どの薬がA君に合うのかを知るために色々と試してみましたが、行動観察をしていてもどれが効いているかまったく判断がつきませんでした。A君の学校での対人関係を少しでも良好になる手助けになるようにと願ってのことでしたが、うまく物事は進みませんでした。児童精神科医の先生と試行錯誤を繰り返す日々が続き、今の薬を継続的に服用することになりました。それを飲んでいてもあまり効果が表れているようには思えませんでしたが、そのうちに服用をやめたらどんな状態になるのかが怖くなり、今度は薬をやめることが不安になりました。そんな毎日を送る中、結局は薬は補助的な支援にしかならないのであり、養育者が腰を据えてかかわる以外には術がないのだと悟りましたし、長期戦も覚悟できました。

 

 私たち子どもの養育に携わる者には、様々な支援をしてくれる制度があるので遠慮なく利用すべきだとは思いますが、それだけで子どもの養育が成り立つ訳ではありません。手助けにはなりますが、最終的には子どもと向き合う養育者の決意がものを言うのだろうと思います。そういった意味で厳しい世界だとも思います。物を扱っている訳ではなく、命を育む働きですので養育者にかかる心理的負担は非常に大きいと思います。私も児童の養育に携わる者として、子育てに悩み苦しみ涙する方々に心より同情いたします。決して私たちは1人で戦っている訳ではありません。同じ苦労を共になる仲間が周りにはたくさんいます。共に励まし合いながら子育てに臨めれたらと願っています。

ブログ00195 「里親フェスタ」 2020年10月8-11日

 日曜日に「里親フェスタ」に行ってきました。これは、里親会と児童養護施設の興正学園さんとで企画したもので、多くの方々の協力を得て実施されました。内容は、札幌駅の地下歩道空間で開かれた里子の作品を展示するイベントで、同時に里親制度を人々に広く知っていただくために行われました。私は午後から何かお手伝いができないかと思って参加しましたが、十分にスタッフが準備されていたために、これと言って何も出番はありませんでした。一応、里親会会長としてマスコミ取材への対応を依頼されていましたが、結局マスコミが来て取材することもなく、ただパネル展示場をうろうろしていただけとなりました。

 

 10月は里親月間のため、少しでも里親制度を知ってもらえる機会になってくれればと願っての開催でしたが、現在はコロナ禍ですので会場への呼び込みをすることも禁止されており、様々な制限の中でおこなわれました。しかし、予想を超えて色々な方々が足を止めて里子たちの作品を観てくれたり、里親制度を分かりやすく説明したビデオを観てくれたり、里親に関する質問をしてくれたりしたので嬉しく思いました。様々な事情で家庭で養育されない子どもたちの存在に気づいてくださり、彼らを温かい家庭に迎えてくれる里親さんが増えることを心より願っています。子どもの健全な育ちのためには、特定の大人による「家庭養育」が最も望ましいことは誰しもが認めている事実です。社会的養護においてそれを可能にできるのは里親だけです。里親の担い手が増えることが「児童の最善の利益」を目指す児童福祉の向上につながるものと私は確信しています。

 

 そのためにも、安心して里親になれる環境づくりが里親会に課せられた使命であると思っています。個人の善意だけに支えられた里親活動には限界があります。様々な事態に対応できる十分な支援体制が整っていてこそ、安心して児童の委託を受けれるというものです。里親は人の命を預かる働きですから、自分一人ですべてを背負わなければならないというのではあまりにも過酷であり、不安、心配、恐れがある中では誰であれ容易に踏み出せれるものではません。そんな不安、心配、恐れを少しでも減らし、里親さんが安心して児童を家庭に受け入れるようにしていくことが、里親制度の普及には絶対不可欠な要素であると思います。今回の「里親フェスタ」で里親について尋ねている人々の姿を見て、改めてその必要性を強く感じました。

 

ブログ00196 「負担」 10月12-15日

 E君は、特別支援学級で学んでいるものの何でもうまくこなせる能力があり、学級内でも頼られる存在となっています。そのせいか、学級内での様々な責任ある役割を負わせられることが多く、近くで見ている私たち里親も「大丈夫だろうか。」と心配になります。先日も学級代表を誰がするのかという話し合いがあったそうですが、またE君がやることになったようです。1年生の前期と後期も、2年生の前期も学年代表を務めあげたE君が、後期も学年代表をやることに対して少なからず違和感を感じましたので、連絡帳の父兄欄に意見を述べさせてもらいました。

 

 私としましては、うまく役割をこなせるからと言って1人の児童にばかりに責任が偏ることには不満を感じます。その方が先生方は楽なのかも知れませんが、本来クラスというものは全員でまとめ上げるものであり、1人の児童に背負わせてこなしていくところではないと思います。力不足を感じながらも、クラスメイトと先生方の助力を得ながら目的を達成する体験がこれからの人生には非常に有益だと思います。できる人間だけにやらせて、難しい人間を傍観者にさせることが教育だとは思いません。これからの人生においても背負いきれないと思えるような問題や悩み、仕事や課題に遭遇することもあるでしょうから、そんな場合に周りの力を借りて乗り越えれたという体験があれば、躊躇なく助けを求めることもできるでしょう。最大の問題は、困った時に誰かに助けを求められないことの方です。1人で抱え込んで悩んでいるうちに押しつぶされてしまうことを恐れます。そういったリスクを背負わせて彼らを社会に送り出してはならないと私は考えます。失敗ができるのは今の内だけですし、周りには手助けしてくれるクラスメイトや先生方がいるのですから、困った時には人に助けを求めることを学ぶには絶好の機会だと思います。その機会を先生方にはちゃんと生かして欲しいと思うのです。

 

 さらに、E君にとっても負担が大きいと思います。他の児童に比べて何とかこなせるという程度であり、私には随分と無理をしているように感じられます。今までも、ホームからたくさんの児童が特別支援級に通っていた経験があり、能力がある子にばかり役割が偏ることに不満を感じていました。人目には何とかこなしているように見えても、児童はかなり無理をしている場合が多く、彼らの心の苦しみに周りの先生方が気づいていないことも多々ありました。大きな期待を掛けられていることを知っている児童は、学校では「苦しいです。やめたいです。」とは言えないのです。家庭に帰って来て悩み苦しんでいる児童をどれほど見て来たことか。本当ならば、自分の口で気持ちをちゃんと伝えられる児童になることが理想ですが、簡単にはそうはできないものです。成長と共にそうなっていって欲しいと願っていますが、そうできない児童には里親の力が必要です。こういう時こそ里親の出番ですから、私が学校に状況を伝えて1人の児童にばかり負担がかからないように、また学校生活に配慮してくださるようにお願いしています。これから社会に出て生きて行く彼らには、困った時に周りの人に助けを求める勇気を持つ人間に育って欲しいと私は心より願ています。

 

ブログ00197 「歯痛」 2020年10月16-19日

 先日より歯痛が続いており、歯科で診てもらっています。少し前までは冷たいものがしみて知覚過敏で悩まされていました。歯科の先生は神経を抜くことは避けたいと言うことで、薬を塗ってもらったり、埋めてもらったりと様々な治療を施してもらい痛みを感じなくなっていましたので安心していました。しかし、2か月もたたないうちに今度は、温かいものがしみるようになり、しかも痛みが長く持続するという状態になり、生活に支障をきたすようになってきました。食べるということは、生きると言うことに直結している行為であり、そこに支障をきたすというのは本当に苦痛なものです。温かいものを食べては痛み、それを鎮めるために水を飲みの繰り返しで何とも落ち着きません。また、仕事をしていても、子どもと遊んでいても、家事をしていても痛みに悩まされて何も手が付けられない状態です。夜も眠れず少なからずイライラが募ってしまいます。

 

 歯1本の痛みでこれほど生活を脅かされるようになるとは思ってもいませんでした。たった1つの小さな器官の痛みなのに、生活全体に影響を及ぼしていることを思うと、小さな器官の問題も決しておろそかにしてはいけないことを学ばされています。小さな器官の問題であっても体全体の問題になってしまう。それが有機的につながっているということであり、決して小さな器官の問題を軽く扱ってはならないんだなぁと改めて確認できました。それは家庭においても同様であり、里親家庭であっても有機的なつながっりを持つ家庭においては、1人の家族の問題は家族全員に影響を及ぼすものであり、決して1人の問題で済まされるものではありません。望もうが望まなかろうが、無関係に生活することはできません。ですから、家族1人の抱える問題を決して小さなことと考えず、家族全員で解決していこうという姿勢が大切なのだと思います。なぜなら、必ずその問題は自分の生活に影響を与えることになるからです。他人事ではすまされず、必ず自分事になるのです。

 

 そんな分かり切ったことですら、毎日の慌ただしい生活の中で忘れてしまい、自分のことばかりに気を奪われて家族の状態に無関心になってしまっているように感じます。家族は生命共同体ですから、決してお互いに無関心であってはなりませんし、自分のことのように家族のことを考えて生活してこそ自分の生活もまた祝福されるのだということを忘れないようにしたいものだと思います。聖書の中に「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)というみことばがありますが、家族に対して関心を持ち、自分ならこして欲しいだろうと思うことを積極的にしようとする姿勢の中に、有機的なつながりのある生命共同体としての家族の理想的な在り方があるように思います。簡単なことではありませんが、「そうなれたらなぁ。」と願わされます。

ブログ00198 「疑わしい行動」 2020年10月20-23日

 野菜が苦手なA君が、苦労しながらトマトを食べている最中にCさんがA君を食堂の外に呼びだしました。A君が脱衣室の片づけをしておらず、自分がお風呂に入るのに邪魔だからという理由で綺麗に片づけさせるためでした。そのためA君はトマトを口に含んだまま食卓を離れて脱衣室に行きましたが、帰ってくると口の中のトマトがなくなっていました。食卓に帰ってくる前にトイレにも立ち寄った形跡があったので怪しいと思った里母が、「食べていたトマトはどうしたの。」と尋ねると「食べました。」と答えたそうです。でも、トマトを食べたくなくってトイレに流したのではないかと疑った里母は、「本当ですか。トイレに捨てんじゃないの。」と更に尋ねたそうですが、A君は「いいえ。食べました。」と言い張ったそうです。

 

 釈然としない里母は、私のところに電話をしてきて(先に食べ終わって事務室にいましたので)、「A君を信用できなくておやつを出してあげる気持ちになれないのだけど、どうしたらいいと思う。」と対応の相談をしてきました。私としましては、「疑わしくは罰せず。」という基本姿勢で養育に臨んでいますので、里母には「現場を見ていない限りにおいては、トイレに捨ててしまったと決めつけることはできないよ。もし、万が一本当に食べていたのなら君に疑われたことをA君は生涯忘れないから、どんなに疑わしくても決めつけるのはやめよう。後で私からA君に聞いてみるから。」と話しました。私がそのように言ったのには自らの体験が影響しています。私が小学5年生の頃、兄のお金500円がなくなった時、兄が血眼になって探したけど見つかりませんでした。その時、母親が「マサオ(私のこと)が取ったんやわ。」とボソッと言いました。その当時の私は疑われても仕方のないような生活をしていましたので、そう思われても無理はないと思いますが、その時は取ってはいなかったのです。今からもう約50年も前の話ですが、今でもあの時の母親の言葉は忘れられません。その経験から、はっきりと事実と認められないことに関しては、子どもの行動がどんなに怪しくても決して決めつけないことにしたのです。疑わしいだけで犯人と決めつけることは、もしそうでなかった場合に生涯忘れられない傷となってその児童の心に残るからです。私と同じ思いを彼らにはさせたくはないのです。

 

 すこし時間を置いてA君を呼びだし、静かに話をしました。この頃のA君は成長してきており、うそをつき通すよりも正直に話す方が得策だと言うことを学び始めています。それで、ゆっくり落ち着いて尋ねると、A君は自ら「トイレに捨ててしまいました。」と言いました。それに対して「食べ物を捨てるのは良くないよね。トマトを食べたくなかったのかい。」と聞くと「すっぱいので。」と答えました。「そうか、酸っぱいから食べたくなかったのかぁ。誰だって苦手な食べ物はあるものだよ。でもね。トマトにもたくさんの成長に必要な栄養が含まれていて、からだに必要なんだよ。だから、少しでも食べるように頑張ってみようか。もしも酸っぱいならマヨネーズをつけるなり、甘いドレッシングをかけるなりしてみようよ。トマトが嫌いなF姉ちゃんも頑張って食べてるのを知っているでしょう。だから、A君も挑戦してみよう。」と話しました。A君も「トマトを捨ててごめんなさい。少しずつでも食べれるように努力します。」といってくれました。こんなに素直に話を聞けるなんて信じられないと思いながら、長く人生を生きているとたまには奇跡に遭遇することもあるものだと思いました。何はともあれ、子どもたちにはうそをつき通すのではなく、正直に自らの非を認めて謝れる立派な大人になって欲しいと心より願っています。

ブログ00199 「リモート参加」 2020年10月24-27日

 全国里親会の会長会議が、月曜と火曜日の両日に東京の衆議院議員会館で行われました。東京会場まで行けなかった私は、リモートでの参加となりましたが、中々接続することができず、随分と苦労いたしました。時代の潮流スピードに全然ついて行けず、改めて自らの老いを実感する機会となりました。これからの時代はZoomくらいは使えないとダメだと言われますが、アナログ人間の私には、融通の利かないデジタル機器とはとてもうまく付き合うことはできません。アナログ時代の昔の機器は、だましだまし、なんかかんかいじくっているうちになんとかなりましたが、デジタルの時代は正確な操作をしなければまったく動いてくれません。もうお手上げです。来年還暦を迎える私には、今の時代の先端で生きることは不可能であり、早く後継者を準備しなければどうにもならないと痛感させられました。

 

 今回の会長会議での収穫は、茨城キリスト教大学講師の草間吉夫先生の講演でした。草間先生は、子ども時代に児童養護施設で生活していた体験を有していますが、努力して高萩市長にまでなられた方であり、社会的養護の下で養育されている児童たちにとっての誇りや希望となっています。このことは、たとえ社会的養護の元で育った児童であっても、大きな希望と未来が開けていることを教える実例として話せますし、不遇な環境を乗り越えようと努力してる児童にとっての大きな励みとなります。私は、子どもたちには自分の置かれている環境のゆえに人生を諦めないで欲しいと願っています。自ら望んで生まれてきた環境ではありませんが、環境が人生のすべてを決めるものではありません。幾らでも人生は切り開けます。ですから、自らの境遇のゆえに決して未来を諦めないで欲しいのです。そんな生きた実例があることに気づき、不幸な環境に勇気をもって立ち向かって変えて行ってもらいたいのです。漫画のスラムダンクではありませんが、「諦めたらその時点で試合終了」です。彼らには人生の試合を戦い続けて欲しいし、勝利してもらいたいと思います。

 

 あともう一つ、草間先生の話で岡山孤児院の開設者である石井十次のことが話されたのも感動的でした。彼は、私が里親になる切っ掛けを与えてくれた人物だからです。彼との出会いがなければ、私は里親になることはなかったし、約30年もの間里親を続けることもできなかったと思います。石井十次は、今から百年も前の人ですが、その時代において既に特定の大人による継続的な家庭養育が児童の育ちには重要であることを理解しており、施設を小舎制にして養育者を住まわせて児童の養育に当たりました。彼は先見の明を持っていました。厚生労働省は、今頃やっと家庭養育の重要性を認めて、家庭養育を行う里親に委託を優先しようとしています。百年も出遅れています。非常に残念な話です。でも、過去を嘆いていても仕方がありません。現在と将来は大きく開けています。家庭養育が主流となる社会的養護の実現を目指して努力して参りたいと思います。それが、被虐待児童の幸福へとつながると私は確信しているからです。

ブログ00200 「特別給付金」 2020年10月28-31日

 コロナ禍での経済支援及び経済刺激策として支給された特別定額給付金は、里子それぞれの銀行口座に入金して大切に保管しています。家庭引き取りになった後、実親さんと相談して児童の必要のために用いて欲しいと思ってのことです。その給付金をめぐって子どもたちの間で自分の好き勝手に使用できるお金であるかのような考えを持っている児童がおり、私個人としましては問題に感じています。確かに、子どもにもひとり当たり10万円ずつ給付されたものであり、子どものために使われるべきお金ですから大人の都合で自由に使われていいお金ではありませんが、だからと言って子どもが自分の欲しい物を好き勝手に自由に使って良いという話にはならないと思っています。子どもたちの中でそのような思いを抱いているのは中学生の2人だけですが、恐らく学校の友達からの影響を受けての考えのように思います。学校の友達の中には、特別給付金を自分のものだと豪語し、好きな物を買ってもらって自慢している児童がおり、それを単純に羨ましく思ってのことだと思います。

 

 しかし、私から言わせれば、大人の世話にならなければ生きていけない児童が、特別定額給付金を自分のものだと主張するのは厚かましいと思います。それを言えるのは、自分の生活を自力で賄っている人であって、生活費のすべてを親に負担させている児童の言うことではありません。特別定額給付金を自分の思い通りに使う権利があると思っている児童は、自分の立場をまったく理解できていない利己的な人間だと思います。現在、コロナ禍の影響で6万人もの人々が雇止めにあっており、全日空をはじめ大企業から人員削減や冬の賞与をカットされて生活が窮地に追いやられている人々も多い状況下で、自分の欲しい物を買おうなんて考えること自体がおかしいと思います。それは、子どもだからと言って許される考えではありません。子どもも家族を構成する重要な一員ですから、家庭の状況を省みない身勝手な考えは許されません。家族は生命共同体ですから、家族のことを優先して考えられなければなりません。それができなかったから家族と生活することができなくなってファミリーホームで生活することになったのですから、そろそろ家族とは何なのかと言うことをしっかり学んで欲しいと思っています。今回のことも、年少の児童ならともかく家庭引き取りが間近に迫っている中学生の2人がそう思っていたことに少なからずガッカリしています。特に彼らは、これから修学旅行も高校進学も控えてお金がかかる時期も迎える訳ですから、実親さんの経済的負担を少しは考えられる児童であって欲しかったのにです。彼らには、個人的に再教育の必要を感じました。

 

 毎夜我が家で行われる反省会で、この問題を取り上げて話をしました。特に家庭引き取りが間近に迫っている年長の2人には、実親さんと家庭を再構築し、再びこのようなところで生活するようなことにならないように、自分のことしか考えられないような利己的な児童ではなく、家族全体の幸せを考えれる児童になって欲しいと願っているからです。私の熱弁がどれ程彼らの心に届いたかは計り知れませんが、今度こそは家族に愛され必要とされる重要な一員としての生活を営むことができるようにと心より願っています。里親養育の真価が問われるのは、委託児童が実親さんの家庭に帰ってからです。家庭に帰ってからの彼らの生活が以前と変わっていないのなら、矯正教育は失敗だったと言うことになります。2年以上に亘って家庭とはどうあるべきか、家族一員として何が必要か、幸せな家庭であるためにどうすれば良いのかを一緒に考えてきた日々が無駄にならないことを願っています。今回のことで、雲行きが怪しくなって来たことを感じ、大丈夫だろうかと不安になっています。